「情報戦」「認知戦」の時代に

 ロシアとウクライナの戦争において、「情報戦」「認知戦」という言葉を聞くようになりました。

「情報戦」とは、国のコントロールによる大手メディアからの情報によって、相手国中枢の判断ミスを目的にする戦いのことです。その際のターゲットは「政府機関」や「スパイ」でした。

 ところが現代は「情報戦」から「認知戦」の時代に移行していると言われます。「認知戦」においては、大手メディアやSNSなどによる真偽不明の映像やニュースなどの情報によって世論に働きかけ、自らの正当性と敵対者の不当性を刷り込み民意を操作します。意図的に動かされた「民意」によって、相手国の政治的決定をコントロールする戦い。それが「認知戦」です。要するに「認知戦」とは、現代における洗練された「扇動」合戦ということです。

 

 マルコの福音書から主イエスの受難の出来事を読み進めるなかで、あらためて気が付かされているのは、主イエスを十字架に押し上げていった背景に、当時のユダヤ社会の権力者集団の陰謀があったことを、福音書は証言する書であるという側面です。

 ユダの裏切りによって捕らえられた主イエスは、つじつまの合わない「証言」を元に、ユダヤ議会の不当裁判によって死刑の宣告を受け、死刑執行権のあるローマ総督ピラトに、イエスの死刑を受け入れさせるために、祭司長たちが民衆を扇動したことを、福音書は「証言」しています。

 

 祭司長は巧みに民衆を「扇動」し、「十字架につけよ」と主イエスに向かって叫ばせ、ピラトの政治決定を動かすことに成功しました。まさに「認知戦」による勝利です。それと同じことが、現代はさらに巧みに行われていることに気づかれないまま、私たちはあらゆるメディアの情報を無批判に受け取っています。もし「あらゆる報道が同じトーン」となり、それに影響された人々が「同じ意見を言い始め」たり「違った見解、意見、反論に耳を貸さなくなる雰囲気」が醸成されているならば、「認知戦」に巻き込まれているかもしれないと、疑う必要があるとわたしは思います。

 

先日のゼレンスキー大統領の国会演説の直後、演説の言葉に応答した、ある自民党の議員は、こう言いました。

「命をも顧みず、祖国のために戦っている姿を拝見してその勇気に感動しております」

 

戦前、このような勇ましい発言を、批判するようなものは「非国民」と呼ばれました。今はどうなのでしょうか。この国会議員のように、「国を守るために戦うのだ」という勇ましい言葉を語る人々が増えていく流れの中で、「剣を持つものは、剣によって滅びる」とか、「敵を愛し害する者のために祈れ」といわれた、主イエスの言葉を語る人々は、やがて「非国民」と言われる時がくるのでしょうか?

 

 宗教改革者のマルティン・ルターは、当時の教会が当たり前のように行っていた「贖宥状(免罪符)」を始めとした間違った事柄に対し、聖書の言葉を根拠に問いました。またバプテスト教会の先達たちは、イギリス国教会が当たり前のように行っていた「幼児洗礼」などの事柄について、聖書の言葉を根拠に問いました。いずれのケースも、当時の国(教会)権威によって刷り込まれていた考え方を、聖書の言葉に立ちもどって問い正すという出来事であります。わたしたちの教会は、この先達の信仰の流れの中から生まれた教会です。

 

ヘブライ人の手紙4章12節にこうあります。

「・・神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

 意図的に流される情報により、自分自身を見失うことのないように、主イエスの言葉によって、自分の今の思いや考えを問うことで、見分けていくものでありたいと思います。