「主にある交わりを喜ぼう」

shuichifujii2006-08-01


2006年常盤台バプテスト教会サマーキャンプ
開会礼拝メッセージ

聖書:マタイ18章20節
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」


 個人的な話で恐縮ですが、今回、このめぐみシャレーに来たことを、私はとても感慨深く思っているのです。なぜかと言いますと、14年前。私がバプテスマを受けて、初めて参加したサマーキャンプが、ここめぐみシャレーだったからなんですね。そしてそのキャンプを最後に10年間、サマーキャンプは休止。そして三年前に再開して、今年、このめぐみシャレーに帰ってきたわけです。その10数年の間に、どういうわけか、わたしは牧師になっていて、今年こうして、恵みシャレーで最後のキャンプだと思うと、不思議な神様の摂理というものを、まあ、思うわけであります。人の出会いは考えてみれば不思議なもの。しかも、この日本は、世界でももっともクリスチャンが少ない国の一つですから、こうやってクリスチャン同士が出会い、交わりをもっているということ。これは実に当たりではないということに気が付きたいと思うのですね。

 ボンフェファーは「共に生きる生活」のなかでこういう事を言っています。
 「キリスト者の交わりは、それが日々与えられている人にとっては、とかく軽んじられ、なおざりにされがちであるけれども、キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国のめぐみの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものであることが、とかく忘れがちである。だから、そのときまで他のキリスト者と、交わりの生活を送ることを許されたものは、心の底から神の恵みを褒め称え、ひざまずいて神に感謝すべきである。」

 本当にそうだと思います。私の家族が酒田に行ったら、クリスチャンの交わりをしたくても、家族以外にはいないわけですね。そう思うと、こうやって皆さんとともに、クリスチャンの交わりが持てることは、これは当たり前ではない神の恵みなのだと、感謝を忘れてはならないと思うわけです。


 さて、今回のテーマは「主にある交わりを喜ぼう」ということです。これは、今年の教会の標語ですね。今年は、交わりを喜ぶことを、もう一度確認したい。そんな思いから、このテーマになったのではないかと、そんな思いがしています。

「教会にもっと温かい交わりが欲しい」とか、「この頃交わりが足りない」とか、そういうことがよく教会のなかで言われたりするわけですね。だから、交わりを喜びたいのだとそうなった。

 しかし、では、いったいその「交わり」とは何を意味するのでしょう。「交わり」ってなんですかと、クリスチャンではないひとに聞かれたら、どう答えますか。わたしたちは、「交わり」というとき、どんなイメージを持っているのか。

 一緒にお茶を飲むこと。それも交わりといったりしますね。食事をして交わりましょうと言ったりもする。時にはスポーツ大会をしてみたり、ハイキングも交わりだと言ったりしますね。要するに、教会で耳にする交わりという言葉は、、一言で言えば、一緒に楽しく時を過ごすこと。それを交わりと言っているように思うのですが、どうでしょう。交わりというのは、一緒に、そして楽しく、時を過ごすこと。そんなイメージがありますね。

 さて、交わりという言葉は、ギリシャ語ではコイノニアといいます。つまり、コイノニアという言葉を、日本語で交わりと訳しているのですけれども、しかし、交わりと訳さないこともあるのですね。何カ所か聖書の箇所を開けてみたいのですが、たとえばフィリピの手紙を開けましょうか。

たとえば、1章5節、「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」

…この「あずかっている」という言葉は、実は、コイノニアという言葉なんですね。


 さらに1章7節、「…監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなた方一同のことを、共にめぐみにあずかる者と思って、」

…となっている、この、「ともに恵みにあずかるもの」というのも、コイノニアなのです。

さらに
・3章10節、「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら・・・」

…この苦しみに「あずかる」も、コイノニアなんですね。


・4章14節、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」

…この「共にする」もコイノニアであります。


 どうでしょうか。わたしたちが「交わり」というときの、一緒にお茶を飲んで、楽しくお話をするというような、一緒に、楽く、ときを過ごす、という「交わり」のイメージとはだいぶ違うのではないでしょうか。

 このフィリピの手紙にでてくる、コイノニアという言葉。つまり、わたしたちが「交わり」と言っている言葉は、一緒にお茶を飲むというよりも、一緒に福音宣教をする、そういう恵みにあずかる、こととか、キリストの苦しみにあずかる、 とか、お互い困難を共にするとか、そういうことをコイノニア、交わりと言っているのですね。

 わたしたちは、交わりというと、一緒に過ごす、楽しい時間をイメージするわけですけれども、聖書の教えるコイノニアというものは、必ずしも、楽しい時とは限らない。かえって、一緒に苦しんだり、悲しんだり、辛かったりすることを分かち合うことを、コイノニアと言っていたりするわけです。

 主にある交わりといいますけれども、この主にあるというのは、英語で言えば、IN The Lord ですね。in ですから、主の中にというイメージであります。新共同訳聖書は、この主にあって、を、主に結ばれてと訳すようになりましたね。わたしは個人的には、このほうがわかりやすい気もします。主にあるとは、主に結ばれていること。そんな主に結ばれたものどおしが、そのキリストに結ばれている、霊的な喜びを分かち合う。人間的には楽しくないかもしれない。苦しかったり辛かったりするかもしれない。しかし、状況はどうであれ、わたしたちが主に結ばれていることは変らない。その霊的な喜びを分かち合う交わり。それがコイノニアであります。

 ボンフェファーは先ほどの書物の中でこうもいっています。

「ひとりのキリスト者は、ただイエス・キリストを通してのみ、ほかのキリスト者に近づくことができる。そもそも人間同士には争いがある。・・・・キリストなしには、神と人間とのあいだ、人間と人間とのあいだに、不和がある。・・・・キリストなしでは、われわれは神を知らず、神を呼ぶことも出来ず、神に行くことも出来なかったし、また、キリストなしには、われわれは兄弟をも知らず、兄弟にいくことも出来なかったのだ。」

 そういいます。つまり、本質的に人間にはエゴがありますから、そのエゴによって、お互いが本当に出会う道は妨げられているわけです。そこである人は、酒の力をかりて、互いのあいだの壁を取り除こうとするわけですけれども、それは難しい。
 パウロは、こういいました。「酒によってはなりません。むしろ御霊に満たされて、 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」と

 酒は人間のエゴを取り除けないでしょう。かえって酒に酔うと、人は自分のことばかり話し出したり、自分勝手に怒ったり泣いたりしてしまうわけです。酒は飲んでも飲まれるなということですね。だからパウロは、交わりというときには、むしろ酒に酔うのではなく、御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌をもって語り合いなさい。それが本当の主にある交わりだと言うわけです。

 つまり、主にある交わりというものは、ただ、気の合う人々が、一緒に飲んだり食べたり話したりすることではないということですね。そうではなくて、人間的には、気が合わない人々と、とてもとても、一緒にお酒など飲みたくない人同士が、ただ、お互いに心から愛しているキリストを分かち合うことで、一緒に賛美することで、お互いが結ばれていく。それがまさに御霊に満たされた交わり。コイノニアであります。

 そして、大切なのは、この交わりとは、現実とは切り離された、なにか修道院のなかだけのお話、ではなくて、わたしたちの現実。それも人間くさい現実のなかでこそ、この主にある交わりが大切だということであります。

 先ほど、フィリピの手紙から何カ所か読みましたけれども、このフィリピの教会にも、実に生々しい人間の姿があるわけです。

 たとえば、1章15〜17 節をみると、こうあります。

1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。
1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、
1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。

…教会のなかにねたみと争いがある。そして、なんとクリスチャンの仲間からパウロは苦しめられていたわけです。

さらに、2章21節では

「2:21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」と言っている。

…これはものすごい言葉ではないでしょうか。なぜならこれはクリスチャンのことを言っているからです。
パウロの周りにいたクリスチャンは、自分の事ばかり考えている。そんな自己中心的なクリスチャンにパウロは囲まれていたわけです。

さらに、4章2節、「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」

とあります。これはいわゆるエボディアとシンティケ問題というのですけれども、この二人はご婦人です。対立しているわけですね。今も昔も、婦人会、女性会は大変なんですね。

 そういうわけで、フィリピの教会も、実に人間くさい問題が多々あったわけです。ねたんでいるクリスチャンやら、自己中心なクリスチャンやら、争っているご婦人たちがいた。いつの時代の教会にもこういうことはあるわけです。でも、パウロは、そんな教会にこの喜びの手紙を書いたわけです。だから、パウロは、ここで、決してきれい事や理想論を言っているのではない。とてもとても、涙なしには語れないような、悲しい現実や、不条理な仕打ちに愛ながらも、なお、あきらめないで、主にある交わりを喜ぼう。キリストのコイノニアを喜ぼうと、そう語るわけです。

 さて、今回のテーマの聖句は、マタイの福音書18章20節ですね。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」

 クリスチャンが2人でも3人でも一緒にいれば、そこにイエスさまがいてくださるという、そういう約束。でも、もっと大切なことは、この言葉がどんな文脈で語られたかということです。実はこのイエスさまの言葉は、教会のなかで、クリスチャンが罪を犯して、交わりが破壊されたときに、ではどうやって交わりを回復したらいいのかという、そういうお話の最後に語られた言葉なのです。

18:15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
18:16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
18:17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 これも大変生々しい現実です。どんな教会でも、傷つけあってしまうということが起るわけです。そんなとき、まずどうするか。それは、まず、相手と二人だけになって忠告するわけです。これがなぜ大切なのかといえば、夫婦の間で考えてみるとわかりやすい。もしわたしの妻が、わたしに対する批判を、わたしに直接言わないで、他の人に散々語っていたと知ったなら、これは夫婦の信頼関係が失われるわけです。当人に言えないことを、他の人にいう。これは、つまり陰口とかうわさ話でありますけれども、これが教会の交わり、信頼関係を壊す力は絶大なのであります。だから、イエスさまは、まず、なにかあったら相手に直接忠告すべきだというわけですね。なぜなら、それは、相手が「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」からだとイエスさまは言われるわけです。つまり、イエスさまはなによりも、主にある交わりの回復を願っておられるわけであります。
 
 教会は人間の集まりゆえに、傷つけ合うことも起る。生々しいことも起る。しかしだからこそ、こうやって主にある交わりを回復しなさいとイエスさまは教えてくださった。つまり、それほどまでにの、主にある交わりというものは大切なものなのだ。簡単に壊してはならないものなのであります。

 茶飲み友達なら、ちょっとしたトラブルで関係が壊れる。所詮その程度の交わりなのです。しかし、教会の交わりはそんな茶飲み友達とは違います。ボンフェッファーが言ったように、キリストが与えてくださった恵みなのであります。その恵みとは、キリストご自身が、十字架に命を捨ててまで、与えてくださった大いなる恵みなのであります。父なる神と御子イエスキリストの交わりに入る恵み。そして、主に結ばれたもの同士が、互いに喜びを分かち合う交わり。これは、人間の努力では作り出せない交わり。ただ、神の恵み。神が下さったプレゼントであります。

 その交わりの尊さを、このサマーキャンプで、今一度、確かめたいと願っているのです。

 今回のキャンプの中で、互いに祈り合うとき、また、キリストについて語り合うとき、そして、キリストを共に賛美するときに、この決して当たり前ではない、主にある交わりの素晴らしさを、体験し、味わい、そして、この恵みを与えてくださった主に、感謝を献げるサマーキャンプとしたいと、心から願っています。