「空気」と裁判員制度

 トヨタが「裁判員休暇」制度 有給で導入するそうですね。
 それはそうと、法律の素人である人が裁判員をするということについて、わたしはどうも恐いなーと思っています。
 日本人の議論においては、山本七平が指摘したとおり、その場の「空気」が絶対支配するわけです。
合理的な判断を越えて、「空気」によっては、不合理な決断がなされうる。それが多くの日本的話し合いの現状でしょう。感情的な発言一つによって作られた「空気」が、合理的な判断を越えて、全てを決定していく。これは恐い。
 民衆の感情的な判断ほど恐いものはない。パウロは、民衆に殺されそうになった。そこで、民衆の暴動から逃れるために、ローマの官憲に対して、それこそ、法律に基づいて自分を取り扱ってくれと求めたわけです。もし、ローマが裁判員制度などやって、ユダヤ人から裁判員を募集していたりしたら、パウロの命はもっと短かったに違いない。

 この国は、政治も「国民感情」なる得体の知れない「空気」によって、動いてしまっているし、マスコミは、一斉に同じ向きに風を発生させる「空気」製造器だし、この国で「空気」というものを無視したら、それこそ、「空気がよめないやつ」となって、風当りが強くなる。
 ネガティブな考え方をしてみれば、今後もし、戦前の時代のような、風評によってクリスチャンが迫害されるようなことにでもなったら、裁判員制度は、不利に働くだろうと予想しますね。風評という「空気」が絶対支配してしまうのですから。
 しかし、聖霊だって、風のように自由に働かれるのだから、逆風ではなくて、追い風が吹いてリバイバルということだってあるかもしれない。「空気」の支配を打ち破るもの。それは、いわゆる「神風」、聖霊のお働きなのであります。