「赦しと祈り」

ルカ11章1節〜4節
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

 祈祷会ではルカによる福音書を順に学んでいますが、今日のところは、イエスさまが弟子たちに祈りを教えられた、いわゆる主の祈りの箇所であります。

 ただ、このイエスさまが教えてくださった祈りの内容は、非常に奥が深く、一言一言を取り上げて、一回の説教にしなければ、とても十分に語りきれるものではないと思っていますので、今日は、4節の祈りの言葉。「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」という祈りを取り上げて聞いていきたいと思っています。なぜなら、毎年8月は、わたしたちは平和を覚えて祈る時でもあるからであります。平和であってほしい。戦争やテロが起らないでほしいというその願いの根底には、互いに許し合いたい、許し合う世の中であってほしいという願いがあるからです。この赦しを祈る祈り無くして、平和を祈るといっても、片手落ちでしょう。

 今も、イスラエルが、報復としてレバノン空爆するというような、やられたからやり返すという憎しみの連鎖が、起っている現実を思えば、平和を願うときに、わたしたちが心に留めるべき祈りとは、やはり、この「「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」という祈りではないかと思うのであります。

 この、負い目のある人を赦しますという言葉で思い起こすのは、イエスさまがなさった、借金を赦してもらった僕の話であります。

 ある王さまが、家来たちに貸した金の決済をする。すると一万タラントンの借金がある家来が、王の前に連れてこられる。しかし、返済出来ないので、王さまはこの家来に、お前も家族も奴隷になれと言い渡す。一万タラントンとは、約20万年分の日給であります。どんなに努力しても、返済などできるわけがない。もう絶望的な状況なのであります。自分の力に絶望するしかないなか、この家来はただただひれ伏して、「どうか待ってください」と、おそらく涙を流して懇願するしかなかった。ところが、この王様は、この家来のあわれな姿に、心を動かれる。そして、彼のこの借金を帳消しするのであります。なのに、この家来は、自分の負い目を赦されたことをすぐに忘れてしまい、かつて自分が百デナリオンを貸した相手の首を絞めて、「借金を返せ」といった。そして赦さずに牢に入れてしまう。

 このお話の最後で、王様はこの家来にいいます。
「私がおまえを憐れんでやったように、おまえも仲間を憐れむべきではないのか。」

これがイエスさまのおっしゃりたかった言葉でありましょう。あなたは憐れみを受けたのに、なぜ、仲間を憐れむことが出来ないのか。神に大きな負債を赦されているのに、なぜ、仲間の小さな負債を、そんなに大きな事のように、怒るのか。赦さないのか。

それが、このたとえ話を通してイエスさまが私たちに問うていることであります。

 もし、地球を、ビリヤードの玉くらいに小さくしたら、この地球は、ビリヤードの玉よりもはるかに、なめらかなのだそうですね。私たちからみたら、たとえば、高尾山と、エベレストとかチョモランマという山は、比較の大正にならないほど、高さに違いがあるわけですけれども、地球をビリヤードの玉にしてみたら、表面はつるつるだというわけです。。どちらの山も、無きに等しい。違いなどないということなのです。ましてやアンドロメダ星雲あたりから、地球をみたとするなら、山の高さを問題にすることすらナンセンスでしょう。

 私たちには、大きな違いだと思えても、神の目にはそうは見えないことがあるわけです。あの人より、わたしの方が、正しいとか、私はまじめに神に仕えてきた。しかし、あの人は怠け者だとか、そんなことを互いを比べては、これは、大きな違いだと思っていることが、天地万物を造られた神の目に、どう写るのだろう。ビリヤードの表面についた手あかの高さ比べをしていることが、どれほど滑稽に写っているのだろうか。そう思います。

 ましてや、主は、ご自分の御子を十字架につけてまで、私たちの罪をゆるして下さっているのに、その宇宙規模の赦しを頂いておりながら、高尾山とエベレストを比べては、わたしの方が高い、正しいと、怒ってみたり、赦せなかったりする、わたしたちの愚かさ。

 いくら、このようなことを聞いても、理屈ではわかっていても、やはり、なかなか赦せない。それが私たちでしょう。神に大きな罪を赦していただいたのだから、互いに赦しあう勇気を持ちたいと、なんど聞いても、現実にはそうはいかない。頭で理解していても体がついて行かない。

 かつての戦争の時代、また戦争直後の時代。ヨーロッパの教会で、礼拝の中で「主の祈り」を祈るとき、この箇所で教会堂中が凍りついたと聞いたことがあります。当然でしょう。赦すどころか殺しあっていたのでありますから、そして親しいものが殺された人は、相手に激しい憎しみを抱いていたわけでありますから。

 しかし、だからこそ、「主の祈り」を祈らなければならないのではないでしょうか。この祈りを祈れない人間だからこそ、口ごもってしまう、そういう赦すことの出来ない人間だからこそ、この主の祈りを祈らなければならない。「自分は、祈れないから、祈りません」ではなくて、「祈れない自分だからこそ、祈らなければならないのであります」。赦しを祈ることなど出来ない、そういう頑なな自分を主に変えて頂くために、本当の自由を頂くために、赦す勇気を頂くために、わたしたちは、この主の祈りを祈らなければならないのだと思うのです。

 イエスさまがこの祈りを弟子たちに教えられた時、おそらく弟子たちの中でも同じような問題があったでしょう。全然考え方が違う弟子たち。熱心党という愛国者もいれば、取税人という国の裏切り者もいる。こんなやつ決して赦せないと、弟子たちは、互いに怒りを溜め込んでいたかもしれない。そんな弟子たちに向って、主イエスは、こう祈りなさいと教えた。いや命じられたのです。そしてまさにこれはイエスさまの愛。赦すことなどできないからこそ、そういう弟子たちだからこそ、イエスさまは祈ることを命じられた。赦し赦されるようにと祈りなさいと命じてくださった。これはイエスさまの憐れみであり、愛なのであります。

 最後まで非暴力によって、黒人の解放運動を導いた、マルティン・ルーサー・キング牧師。彼は、どんなに白人の暴徒からひどいことをされようとも、敵を赦し、愛しなさいと説いたことは、皆さんもよくご存じのことだと思います。そして、その愛と赦しの姿こそが、公民権運動を勝利へと導いた原動力であることも、わたしたちはよく分かっています。

 しかし、それではキング牧師は、自然に、そのような生き方をすることが出来たのかといえば、走ではなかった。彼も心の中で、激しい戦いを経験していたわけであります。

 ある夜の出来事をキング牧師はこう告白しています。

 「ある夜、休むために床にもぐり込むと、電話のベルが鳴った。電話の向こう側からは『黒んぽ、おれたちは、お前やお前らのごたごたにはうんざりしている。もし三日のうちにお前がこの町から出ていかなかったら、お前の頭をぶち抜き、お前の家を爆破するぞ』と汚い声が聞こえてきた。私は、このような言葉をそれまでにも何回も聞いていたが、なぜか、その夜はとても胸にこたた。私は、眠ろうとしたが、眠れず、起き上がって、コーヒーをのみ、座り込んで、生まれて一ヶ月にもならないかわいい娘のことを考え、また向こうで寝ている妻のことを考えた。そして、やがて家族が自分から取り去られるかもしれないと思い、私はもう耐えられないと思った。私は弱かったのである。」

 彼は正直に自分の弱さを語ります。しかし、もう耐えられないと思った瞬間。何ものかが心の中に、こう語りかけた。

「お前は今お前の父親にも母親に電話してもいけない。お前はただ、お前の父がかつてお前に話してくれた、あのお方に頼らなければいけない。道なきところに道をおつくりになることができるそのお方に頼るのだ。」

 彼はそのような語りかけをこころの内に聞いたと語っています。そして、今、まさに、自分にとって神様が、リアルな存在にならなければならない、自分は本当に、神を知らなければならないと彼は思い、その場にうつぶせになって、祈りに祈ったのであります。
 彼は、声を上げて祈りに祈った。やがて、彼は祈りの中で、イエスさまの声を心のうちに聞いたと言います。

「私は決してあなたを一人にしない、決して決して一人にはしない」

 彼はこの日の出来事を、その後の彼を支えた出来事として、決して忘れることはないと、語りました。

 イエスさまがなぜ、「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。」と祈るように教えてくださったのか。それは、わたしたちが、自分に負い目のある人を赦している、からではなくて、赦していないから、赦せないから、そう出来ないからこそであって、だからこそ、そのように出来るように、と、わたしたちは、この祈りを祈り続けなければならないのであります。

 クリスチャンは、キリストの十字架の赦しを知り、恵みを知っているわけですけれども、「罪を赦してください」と祈り、赦しを得ることが出来るわけですけれども、しかし、その私たちから、その赦しの恵みが他の人へと流れていくために、わたしたちには主の祈りが必要なのであります。この祈りに生きなければ、わたしたちは、1万タラントンの負債を赦されても、たった100デナリを赦せないクリスチャン生活を生きてしまう。

 わたしたちは、信仰のみによって救われたのですから、最後まで信仰によって生きていくのです。信仰によって生きるとは、言い替えれば、祈りによって生きるということでしょう。祈りによって、聖霊の助けを頂いて生きる。聖霊の導きを頂いて、私にはできないけれども、聖霊に助けて頂いて、赦せるようにしていただく。そこにこそ、平和へののぞみが、争いのない世界への希望がある。そう信じます。

 イエスさまは、まさに、わたしたちが、神と人との平和に生きるために、主の祈りを与えてくださったゆえに、心を込めて、この祈りを祈りつづけていきたいと、そう願うのです。