「顔を会わせる喜び」

shuichifujii2006-05-27



東京にはバプテストの教会・伝道所が54あります。
でも、普段はなかなかお互い行き来がないんですよね。
そこで、青年たちによる讃美集会を定期的に行って、出会いの場を作っています。その名もJ-Wave (ジーザスの波ってことかな)
ここで、出会って、一緒に礼拝して、刺激を受けて、それぞれの教会で、伝道に燃えて行ってくれたらなと願っています。

次回は7月7日19:00〜 中野バプテスト教会です。


先日5月26日(金)の集会のメッセージをアップしておきます。


「顔を会わせる喜び」
ローマ1章8節〜15節

 ようこそ、J-Wave
J-Waveってどういう意味だか、しってますか。
実は、スタッフもよく分らない。あらためて考えたことないんですね。たぶん、JはジーザスのJでしょう。そのウエイブだから、イエスキリストの波乗り?

エスさまが、波に乗ってみんなのところにいくぞーっていうそんなイメージなのかなぁ。ラジオのJ-Waveは、本当に電波がみんなの所に飛んでいくけれどね。でも、このJ-Waveは、みんなの方が、ここに飛んできてくれないと、J-Waveにならない。ここで、お互い、顔と顔を合わせるとき、そこに目には見えないけれども、イエスキリストが一緒にいてくださって、J-Waveになる。ジーザスの波が、広がっていくんだね。
 
 東京には、沢山のクリスチャンがいるし、教会も沢山あるんだよね。毎回、54の教会に呼びかけているから、そこから一人ずつ来たとしても、54人、二人来たら108人でしょう。この会場は満員御礼ですよ。たった二人来ただけで。でも、そうは問屋がおろさないんだよね。だから、クリスチャンって、出不精なんじゃないかって思うよ。もちろん、仕事やなにやら用事もあるだろうけれどもね。でも、それにしても、もう少し、クリスチャン同士、出会ったらどうかと思うんだよね。クリスチャンってクリスチャンのことがきらいなのかねぇ。嫌いでも何でも、どうしたって、同じ神様を信じているんだから、音楽の趣味が違うからいやだとか、ファッションの趣味が違うから、とか、顔の趣味が違うとか、そんなどうでもいいことを、乗越えて、一緒に神様を賛美したら良いのになって、おじさんはいつも思うんですよ。ほんとに。

 聖書をだしていただけますか

 この聖書の箇所はですね。パウロという伝道者が、ローマにある教会に書いた手紙です。ある意味、ラブレターだね。なぜなら、9節10節を読んでみようか。

1:9 わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
1:10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。

なんとかして、あなた方の所に行きたい。会いたい。そういっているわけですよ。これは、ラブレターでしょう。

 この時、このパウロは、まだ、ローマには行ったことがなかったのだけれども、でも、知り合いのクリスチャンがローマの町にいって、伝道して、教会が出来た。それを聴いて、パウロは、ぜひ、ローマの教会の人たちに会いたい。彼らの所に行きたいよーと祈っていたんですね。それは別に、昔からの知り合いに会いたいとか、昔、世話になったから会いたいとか、そんな話じゃなくて、イエスキリストを信じている人だから、同じ神様を信じている人だから、会いたいという、ただそれだけのことなのであります。

 11節で「あなたがたにぜひ会いたいのは」とパウロがいっているでしょう。この「会いたい」という言葉は、原語のギリシャ語でみると、「あなたが見たい」という言葉なんですね。英語の聖書では、I want to see you と訳している聖書のありますよ。I want to see youですよ。ラブレターでしょ。これは。おー、わたしは、あなたが見たいんだ、あなたの顔を見たいんです、って、願っているんですね。こりゃ、どうみてもラブレターですよ。

 わたしには、二人、小さな子どもがいるんです。上が5歳の女の子で、下が3歳の男の子。下の男の子は名前をシオンというのだけれども、彼の初恋は、二歳の夏休みでした。好きな女の子の名前は、チーチャン。あわれ、シオンくんは、チーシャンに恋いこがれて、毎日毎日、うなされるようにして、「チーチャンを見たい、チーチャンを見たい」と言うわけであります。おおー、なるほど、人を、愛するということは、相手を見たいっと思うことなのだ、と、今更ながら、二歳の息子に教えられたのでありました。相手の顔を見たいというのは、それは、そこに愛があるからであります。もし、彼氏や彼女に、「あなたのこと愛しているけれども、今は、顔を見たくないの」なんて言われたら、残念ながら、フラレタのだと思っていい。愛しているなら、相手の顔を見たいのであります。そして、逆を言えば、顔も見たくないという関係は、これは、もう、残念ながら、愛が壊れたということでしょう。

 教会に行くと、大抵、礼拝堂の椅子が、みんな前に向かって向いているでしょう。学校の教室と同じだね。みんな牧師に向って、まっすぐ向いている。まるで、牧師先生から授業を受けているみたいでしょう。だから、教会って「教える会」って日本語で書くのかもしれないけれども、でも、最近、ちょっと違った配置の教会が出来てきた。ヨーロッパの教会などでは、講壇を、三方向、四方向から、囲むような椅子の配置の教会も出来てきたんですね。ところがですね。こういう椅子の配置を、嫌う人がなかにはいるわけです。こんな椅子のならびではこまる。なぜなら、これでは、お互いの顔が見えてしまうではないか、というわけですね。説教を聞きながら、居眠りをしているのが見えてしまう。それよりもなによりも、みたくない顔を見なければならない、顔を会わせたくないあの人の顔をみなければならない、見られたくないあの人に見られるのもいやだと、そういうことなんであります。


 顔を会わせたくないっているなら、最近は、インターネットで説教だけ聞けたりするでしょう。だったら、それで礼拝をすればいいじゃん、ということになるのか、というなら、パウロなら、そうは言わないはずであります。なぜなら、彼は、あなた方の顔を見たいのだと願っているからですね。神様を信じる信仰、イエスキリストを信じる信仰というのは、、自分一人だけでは成り立たない。お互いが必要な信仰だからであります。

 パウロは、ローマの人々に、是非、会いたいのだと言う。それは、決して単なる社交辞令じゃない。口先だけのきれい事でもない。彼は、本当に切に願っている。それは、神さまさえが証してくださると、9節に書いてあるでしょう。

 9節後半「その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし」

ているとパウロはいった。神様さえ証人だといえた。それは、パウロが本当に、本当に、いつも、ローマの人々を覚えて、祈っていたからに違いないのです。

この手紙の最後をみると、パウロは、沢山の人々の名前を挙げて、よろしく伝えてほしいと書いています。彼はローマの教会の一人一人の名前を、何らかの手段で知ったんですね。そして、彼は、いのりのたびごとに思い起こして、名前を挙げて祈ったのでしょう。

 パウロがなんでそうまでして会いたいと願ったのか。それは、まさに、その日々の祈りがあったからだと思うのです。ある人のことを覚えて、その人のために毎日祈っているならば、その人と、顔を合わせたくないなどとは思わないでしょう。なぜなら、祈りとは、まさに愛することなのですから、人のために祈る、とりなしの祈りをする、ということは、それは、その人のことを、愛することなのですから、愛があるなら、顔も見たくなるわけであります。

 わたしは、牧師ですけれども、正直に告白致しましょう。わたしにも、何人か、できたら、顔を合わせたくないなぁ、という人がいます。名前は言えません。相手はクリスチャンです。牧師なのにね、困ったものです。でもね、だから、そういう人のことを、真っ先に、祈りのノートに名前を書くんですよ、その人の名前を書いて、毎日祈るんです。だから、このノートは、決してだれにも見せられないんだよね。でも、とにかく、祈りますよ。祈る。イエスさまも「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と言われたではないですか。顔を見たくないなと、少しでも感じるひとが現れたら、すぐに祈る。熱心に祈ったらいいと思います。そこに神さまが必ず働いてくださったことを、わたしは経験してきました。

 もし、夫婦が、お互いに相手のことを毎日、覚えて祈っているなら、顔も見たくないなどということは、起こらないだろうと思います。牧師が信徒のことを、信徒が牧師のことを、絶えず覚えて祈っているなら、顔を見たくないなどということは起こらない。いや、たとえ起こったとしても、本当に祈るなら、乗り越えていける。神様が乗越えさせてくれる。なぜならば、祈りとは、愛することなのですから。祈る事さえ出来たなら、すでに勝利なんです。

 パウロは神さまを証人にさえして、いのるときにはいつもあなた方のことを思い起こして祈っているといい、そして祈っているからこそ、パウロは、どうにかして会いたいと願った。

 では、そうまでして彼らにあって、そしてパウロは何がしたいのでしょうか?。

パウロは、11節12節で、こういいます。
1:11 あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
1:12 あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。

 そういいます。
 霊の賜物を分け与えるといっても、もちろんパウロがなにか自分の特別な力を分け与えましょう、と、偉そうにいっているんではないでしょう。神様からの賜物なのですから、みんな、お互いに、それぞれ神さまから頂いているのですから。ただ、その、お互いが持っている、良い賜物を、分かち合いたい。お互い神様を信じている者同士、励まし合いたいと、そういうことでしょう。あのパウロでさえも、顔と顔をあわせて励まされないと、やっていけない。わたしも励ましを受けたい。だから、会いたいんだと、そういっている。ならば、なおさら、私たちは顔と顔を会わせないと、元気が出ないわけですよ。

 山形の酒田というところに、78歳になる牧師御夫妻だけの伝道所がありました。クリスチャンは78歳の牧師夫婦だけ。他に聖書の学びに、ご夫婦が一組やってくるだけ。伝道所といっても、ただの借家に看板を立てただけという伝道所です。

 その伝道所に、去年、私たちの教会から、なんどかお手伝いにいきました。でも、正直、お手伝いするといっても、いったい何が出来るんだろうと、頭を抱えた。伝道所は10人も入ればいっぱいになる小さな借家。こんなJ-Waveみたいな大きな集会はできない。ただ、出来ることは、チラシを配ったり、訪問するくらいです。そして、そのことのために、わざわざ、東京から、新幹線に乗って、山形まで出かけていくことに、本当に意味があるんだろうかと、最初は、正直、頭をかかえてしまった。東京からわざわざ行くのだから、なにかもっと、役に立ちたい。なにかしたいと、そう思っていたわけです。

 しかし、その考えは間違っていたんですね。実際、去年、何回か、教会の人に、山形までいってもらったんですけれども、その人達が、口をそろえて、いってよかった、大きな恵みを頂いたと、感激して帰ってきた。べつに、特別なことはしていない。ただ、78歳になる牧師夫妻と語り合い、チラシを配り、一緒に礼拝して、証をしただけです。ただそれだけ。そのために、高い電車賃出して、時間をかけて。無駄じゃないかと、私たちは思うかもしれない。ところが、山形に行く人、行く人、本当に喜びに溢れて帰ってきたのです。これは驚きでした。

 なにかして上げたとか、してくれたとか、そういうことではない。ただ、顔を見たくて、会いに来てくれた、そして、お互いの信仰によって、神様からの励ましを頂けた。これは、理屈を越えた喜びなのであります。ただ、顔を合わせるだけかもしれない。しかし、その真ん中にイエスキリストがいてくださるなら、本当に励まされ力づけられる、霊的な喜びというものを頂くことが出来る。そのことを、是非、みんなにも知って頂きたいのです。

 第二次世界大戦の時、ドイツのナチスに捉えられて、最後処刑された、ボンフェファーという牧師がいました。彼は、「交わりの生活」という本を書きましたけれども、その本の中で、こういうことを書いています。

 「キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国のめぐみの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないことを、とかく忘れがちである。他のキリスト者との交わりが許されたものは、心の底から神の恵みを褒め称え、ひざまずいて神に感謝すべきである。」

 そういいました。彼は、ナチスにとらえられる、その牢獄の苦しみの中で、孤独の中で、まさに、ああ、クリスチャンの交わりとは、本当に、神様の大いなる賜物、めぐみである、ということをしみじみと感じたのではないか。顔と顔を会わせて、祈ることが出来る、語り合うことが出来る。これは、決して当たり前ではない。これは、神様の恵みなのだ。この、J-Waveの礼拝も、この出会いも、もう、二度と無いかもしれない出会い。もう、二度と会えないかもしれない、一度きりの、顔と顔を会わせる交わりかもしれない。少なくとも、私たちが、互いに愛し合えない、そういうわがまま、罪を、赦して清めてくださるために、キリストが十字架について死んで復活してくださって、たとて、わたしたちが、趣味や好みが違って、お互い馬が合わないなと思ったとしても、でも、互い、神様に赦された者同士、愛し合うことが出来るようになった。神様がしてくださった。それが十字架じゃないですか。そんな神様の絶大なる恵みの賜物を、私たちは頂いているのだから、もっと、もっと、お互い、顔と顔をあわせて、祈っていきましょう。お互いの事を、もっと知っていきましょう。それでも、どうしても馬が合わないな、顔を見たくないなと、そういうこともあるでしょう。だったら、その人のために祈ったらいい。愛せないな、赦せないな、とおもったら、祈ったらいい。祈ることは愛することなのだから、たとえ好きになれない人でも、祈ることで愛することは出来るのだから、そして、祈ったら、神様は必ず、祈りを聴いてくださって、自分の心を変えてくださるのだから、そんな素晴らしい恵みを、十字架と復活という賜物をいただいていることを、忘れないで、互いに、顔を顔をあわせて、神様を賛美しましょう。お互い、この地上で神様を賛美出来る時間は、限られているのだから、一日一日を大事に、一回一回のJ-Waveを大事に、互いに出会って、心からの賛美を、主に献げて行きましょう。