「ダビンチコード」

 牧師をしていると、「ダビンチコードみましたか?」と聞かれることが多いので、観ておきました。
第一印象としては、聖書やキリスト教に関心のないひとには、難しい映画だな、ということですね。小説なら読み返すことが出来ますけれども、映画はどんどん話が展開していくので、きっと途中でついて行くのが難しくなるだろうというのが実感です。マグダラのマリアとイエスさまの関係を、「マグダラのマリア福音書」なるものまで出してこじつけてしまうところは、そのあまりの稚拙さに笑ってしまいましたけれども、いずれにしろ、聖書知識やその背景をあまり知らない日本人への信仰的な影響を危惧するような映画ではないでしょう。

 とにかく、イエスは人間でしかなかったのだと作者は言いたくて、その人でしかないイエスを、教会が神に祭り上げたということにしたい。そして、イエスは神じゃなくてもいいじゃないか。神だと信じる信仰が尊いんだからさ、みたいなことをトムハンクスに言わせていて、このあたりは、いわしの頭でもなんでも拝めてしまう日本人の多層信仰の宗教観にフィットした発言だな。日本人はこういうの好きだから受けるかもな、って勝手に結論。

 でも、そもそも、キリスト教信仰というのは、単なる自分の心のなかの問題ではないんだな。「自分の心の中でそう信じていればいいじゃん」というレベルじゃ乗越えられない試練をくぐって今に至っているのだからね。そこにキリストの復活の事実をみるわけです。キリストの復活がなければ、AD1世紀のあいだに、キリスト教がローマ全土に広まるわけがないでしょう。しかも、唯一の神を信じ、人を神にするような、偶像礼拝を決してしないユダヤ人のなかから、主イエスの復活を叫び、主イエスを神と崇める人々が起こって、殉教までしていったわけです。このことについては、映画はなんら説明なし。やはり、どうしてそうまでしてイエス様を神とあがめ、殉教までしていったのか、その事実を、復活の事実を抜きにして説明したうえで、話を進めないとね。でも、こういう肝心かつ核心的な部分には、すっぽりふたをしているのね。

 まあ、娯楽作品ですから目くじらは立てませんが、ただ、人が殺されていく場面など、映像のもつ影響力を思うと、子どもには見せたくない映画かな。頭のなかのお遊びとしてなら、楽しみたい人が楽しむ分には、それでいいんじゃないかと思います。まさかイエスさまの子孫が生き残っているというこのフィクションを「信仰」してしまう人はいないと思いますけれども、もし、そんな話を「信仰」するくらいなら、キリストの復活を「信仰」したらいいのにと思いますよ。トムハンクスも映画の最後の方で、「結局は、何を信じるかだ」といっていたように。