「神が求める働き人とは」

5月3日祈祷会
ルカ5章1節〜11節

 祈祷会では、ルカの福音書から、一年かけて、イエスさまの生涯を学んでいくことにしています。小学科、そして早朝礼拝も、同じ聖書箇所、カリキュラムで一年間学ぶようにしましたので、教師の方には、まず、祈祷会で自分がお話をする御言葉の箇所を分かち合って、そして祈って備えていただきたいと、そういう願いがあるわけです。

 さて、今日は5章から、ペテロ、ヤコブヨハネが弟子に召された記事から、メッセージを受け止めてまいりましょう。

 ゲナサレト湖というのはガリラヤ湖の別名ですね。イエスさまはガリラヤ湖畔にたっておられた。おそらく、この時点で、イエスさまは、岸辺にいたペテロたちを弟子に招こうと、見つめていたのではないかと、想像するわけですけれども、そのイエスさまをみて、まず群衆達が神の言葉を聞きたくて、押し寄せたという状況であります。

 イエスさまは群衆にお話をするためにガリラヤ湖にやってきたというよりは、やはり、そこで漁をしていたペテロ達を弟子に招こうとして、ここに立たれたのでしょう。

 しかし、イエスさまは、いきなりシモン・ペテロに、弟子になるようにと声をかけたのではなかったわけです。そこには、プロセスがあった。そのプロセスを詳しく見ていきたいわけであります。

 5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

とありますけれども、彼らは一晩漁をしていたのに、何もとれなかったという、そういう無力感のなかで、網を洗っていたわけでありますね。

 興味深いのは、神の言葉を聞こうとして、群衆達が大騒ぎをしているのに、そんなことにはいっこうにお構いなしに、彼らは網を洗っていたということであります。網を洗うということは、つまり、明日の漁の準備をしているわけです。今日、魚が捕れなかった。これでは生活があやういではないか。明日はどうしても魚を捕らねばならない。そういう思いのなか、いそいで明日の漁の準備を整えていたと考えることができる。そうやって、目の前の生活とか問題に埋没して彼らには、神の言葉を聞きにきた群衆など、目に入らず、興味も関心もなく、ただもくもくと網を洗っていたのかもしれません。少なくとも、この時ペテロ達は、イエスさまの所に自分からいこうとはしなかった。そういう信仰はなかったのであります。逆に、イエスさまの方が、ペテロ達のほうにやってきてくださったのですね。イエスさまの方で、ペテロ達を選んでおられた。弟子に召されるという出来事は、神の側の選びの出来事であるということが、ここからもいえるのではないかと思います。

 そして、ペテロ達が、魚が捕れなかったと落ち込んで、網を洗っているのをイエスさまは見ていた。イエスさまはみんな知っているわけです。ペテロの仕事がうまくいかなくて落ち込んでいることも、そして、網を洗って、明日の準備をしている最中であることも、イエスさまは知りながら、なお、ペテロの舟に乗りこんで、岸からすこしこぎ出してほしいと頼まれたということであります。

 そんな、ペテロのしている仕事を中断することを意味しますし、疲れたからだも休まらない。おまけに、気持ちも落ち込んでいるというのに、ここで、ペテロは、なにも言わずに、イエスさまを舟に乗せて、岸から離れたわけでした。

 どういうことかと思いますけれども、一つは、ペテロは以前からイエスさまのことを知っていたということですね。それは、4章の38節以下にありますように、シモンペテロのしゅうとめが熱を出していたときに、イエスさまに癒して頂いたという出来事があった。ですから、ペテロは知っていたわけです。このお方は、ただ者ではない。病気を癒すことができるし、その教えも素晴らしいものがある。その方の願いなのだから、聞こうということがあったと思います。
 もう一つの理由として考えられるのは、そうやって、多くの群衆に向って、神様の教えを伝える、そういう意義ある働きの一翼を担えるのだとすれば、魚が捕れなかったむなしさも、すこしは癒える。この立派な先生を舟に乗せて、多くの人々の役に立つのも、それはそれで意義あることですから、多少疲れてはいるが、仕事も中断するが、とにかくお乗せ致しましょうと、そういうことだったと考えることも出来ます。

ところが、4節をみると、
 「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。」(5:4)

 と書いてありますけれども、このイエスさまの言葉には、さすがのペテロもおどろいた。群衆への話は終わったのですから、ペトロのお役目も終わりということで、再び、岸に戻って再び仕事を続けるはずでしたのに、主はペテロに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われるわけです。

 考えてみれば、イエスさまはペテロが立ち至っている現実を、よく知っておられるわけです。漁に失敗して、落ち込んでいる現実を、イエスさまはよく知っておられるわけです。その上で、あえて、こういうことを言われる。その失敗した漁をもう一度しなさいと、そういうことを言われる。ペテロが自分の現実に、もう一度向き合うように、促されたとも受け取れます。

 ペトロはこう答えますね。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」

 言葉を代えて言えば、つまり、「イエスさま。イエスさまはこの現実を知らないのでしょう。現実は厳しいんですよ。私たち専門家がやったって、今日は無理だったんですよ。そんな無駄なことやめましょう、という気持ちが含まれていたでしょう。

 まだ、群衆に神の言葉を伝えるために、イエスさまを舟に乗せることなら、これは意味あることだから、ペテロもなにも言わずに、多少の犠牲も払ったわけでしょう。

 しかし、こんどのイエスさまの言葉には、ペトロは素直に従えないわけです。ペテロにしてみれば、明らかに無駄なことをしろと言われているわけですから。漁師のプロがだめだといっているのに、今更、何が悲しくて、沖にでて漁など出来るものか。無駄な努力などできようかと、そう考えるのは、これは当然であります。わたしたちだってペテロと同じ立場だったら、同じようにいうのではないでしょうか。

 ペテロは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と、網をおろしました。ここで、ペテロは、イエスさまのお言葉なのだから、だから、自分の経験や知識、プライドなど捨てて、目の前の厳しい現実も乗越えて、ただ、ひたすら、ペテロはイエスさまのお言葉に従って網をおろしたのだ、という解釈では、ペテロがすこし優等生過ぎる気がします。

 もちろん、ペテロがここでイエスさまの言葉に従って網をおろしたからこそ、イエスさまの奇跡に触れることが出来たことはそうでしょう。

 しかし、ペテロは、正直、魚が捕れると期待して、網をおろしてはいない。なぜなら、この後、実際沢山魚が捕れたときに、ペテロは驚いたわけですから、網をおろした時点では、ペテロは魚が捕れるとは期待していなかった。それでもなお、ペテロが網をおろしたのは、「お言葉だから」従ったというだけではなくて、イエスさまにこの厳しい現実を知って貰うために、実際網をおろしてみて、結局魚などちっとも捕れない現実を知ってもらおう、という、そういう思いがなかったとはいえない。そうなれば、ペテロはイエスさまの言葉を本当に信頼して網をおろしたわけではない。イエスさまに期待していたわけでもない。そんな不信仰だったからこそ、魚が沢山捕れたときに、彼は自分のその不信仰さ、罪深さを決定的に知らされてひれ伏したのではないか。イエスさまの言葉を信頼していなかった自分。主は、現実を変えるお方であると期待しなかった自分。そういうペテロの不信仰が、大漁に魚が捕れることで、浮き彫りになった。

 つまり、ペテロがイエスさまの弟子へと招かれたのは、ペテロが信仰深い人で、お言葉ですからと、いかにも、イエスさまの言葉を信じて従ったから、だから弟子に招かれたとはいえない。彼はむしろ、お言葉ですからといいながら、イエスさまの言葉をちっとも信じていないし、信頼していない。そんな自分の罪を知らされてイエスさまの前にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、そのように真実の自分と向き合ったからこそ、自分の罪を認めて、主のまえにひれ伏したからこそ、「恐れることはない」というイエスさまの赦しを頂き、ペテロは、イエスさまの弟子になっていったのではないでしょうか。

 神の臨在に触れる。生きて働いておられる神を知る。それは、同時に、自分の罪深さを知らされるということにほかなりません。かたくなな心が砕かれ、罪の悔い改めが起こるところに、神はおられるのであります。

 逆を言えば、自分を誇り、他人を裁く場所には、神はおられない。そういう意味で、礼拝とはまさに、悔い改めの場であるわけであります。

 そして、そのように自分の罪が示され、赦しを頂く中で、ペテロは、今から、あなたは人間を取る漁師になるのだという、主の召しをいただきます。主に赦された者だけが、主の赦しを伝えて、主の元へ招く、人をすなどる漁師になるわけでありましょう。

 そうやってペテロは、いよいよ全てを捨ててイエスさまに従って行くわけであります。

 しかし、ペテロは、初めからイエスさまに選ばれて、目を付けられていたわけであります。しかし、イエスさまは、ペテロにいきなり、わたしに付いてきなさいと言われたのではなく、ペテロが自分の罪をさとるプロセスを通された。この、自分の罪を悔いて、神の前にひれ伏す経験なくして、本当の意味で、イエスさまの弟子になる、神の赦しと愛を宣べ伝える存在にはなれないと、そう思うのであります。

 もう亡くなりましたが、原田米子という女性がいました。もう40年くらい昔ですが、彼女は電車に飛び込み自殺をして、命は助かったのですけれども、両足と左手を失って、残ったのは右手指三本になってしまった女性です。しかし、後にこの原田米子さんは、田原という神学生とであって、この田原神学生は、一生懸命原田さんを信仰の道に導いて、やがて、彼女はクリスチャンになって、自分にはまだ指が三本もあると、ご主人の田原牧師と共に、神様の恵みを証して生きた人ですけれども、実は、こんな裏話があるのです。それは、まだ二人が結婚式をするまえに、この二人は一線を越えてしまって、米子さんが妊娠してしまったのであります。それが判明したとき、田原神学生は苦悩する。人々に神の道を説き、その魂を導こうとする者が、このような罪を犯したことに苦しむのであります。そして彼は、ある時、神学校の教師や生徒、宣教師が一同に集まるチャペルの時間に、この自分の罪を告白いたします。
「私はクリスチャンとしてのタブーを破りました。婚約者は私の子どもを宿しました」

 それまで彼は、障害を持った女性と婚約したこともあって、周りのみんなから尊敬されていたのです。ところが、この彼の告白は非常な驚きと失望を与え、それいらい、彼の周りの人々の目は、非常に冷たくなったのであります。
 彼は結婚式を挙げようとしたのですが、教会は受け入れてくれませんでした。ある宣教師の好意で、その自宅を借りての結婚式をささやかに行い、神学校においては、同僚達の批判的なまなざしに耐えきれず、ついに彼は途中退学し、独学で牧師になる。
 
 しかし、自分の罪を悔い改め立ち直っていった彼は、本当に、弱い人や苦しむものの悩みを理解する人となりました。奥さんの米子さんも、かつて飛び込み自殺をし、不自由な体をもつ、その深刻な体験のゆえに、多くの人々に慰めを与える人となり、このお二人の働きは、大変大きなものがあったと言われます。

 ペテロが人をすなどる漁師に召されるためには、どうしても、自分の罪を知らされて悔い改め、ゆるされる経験をしなければなりませんでした。神の赦しを知らないものは、人に神の愛を伝えることが出来ないからであります。

 この世界が本当に求めているのは、正しい人ではありません。正しい人など一人もいないからであります。そうではなく、人々から罪人と切り捨てられた人々の、その悲しみに寄り添う人。罪人の共となったイエスさまのように、罪人の悲しみに寄り添う憐れみの人。赦しを知る人こそを、この世界は求めているのであります。

 そのような人をすなどる漁師になるようにと、主が招いてくださる招きに答えて、愛と憐れみに生きるものとならせて頂きたいと切に願うのであります。


お祈り致します。