「憐れみを受けたものとして」

shuichifujii2006-05-22


5月17日祈祷会メッセージ

ルカによる福音書5章27節より

5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 さて今日の個所は、レビという徴税人を中心として、罪人の友になるイエス様と、律法学者たちとのやりとりが記されています。

 このレビという人はどういう人だったか。マルコの福音書では、この人は、アルパヨの子「レビ」となっています。親は「アルパヨ」という名前。そして、この「レビ」という名前ですけれども、これは、イスラエルの12部族にある名前ですね。その中でも、とりわけ宗教的な勤めをする祭司の家系、レビ族から取られている名前です。大変敬虔な名前なのですね。ですから、おそらく彼の家系はレビ族だったのではないか。新約聖書には「レビ」という名前は、あまり出てきませんので、あまり一般的な名前ではなかったのでしょう。やはり、「レビ」という名前には、親の宗教的な熱き思いを感じます。

 クリスチャンも、自分の子どもに、聖書から名前つける方が多いですね。ルツさんとか、ヨシュアくん、うちの子も、上の子が「キリストの香り」から美香、下の子は「シオン」から嗣音とつけましたけれども、やはり、名前には、親の期待と気持ちが込められている。この「レビ」という名前にも、親の信仰的な期待が込められている。将来ぜひ、立派な律法学者になってほしい。そんな願いをこめて「レビ」という名前をつけたと、想像できます。

 当時のイスラエルの人にとって、律法学者になるということは、立派な人格者になるということだけではなく、エリートの道を歩むということですから、律法学者になって、ユダヤの議員にでもなってほしいという、そんな親心も、この「レビ」という名前にはあったのかもしれない。

 そう考えると、そんな熱い親の期待をうけたレビが今や、イスラエルでは、もっとも卑しい職業。仲間から税金を取り立てて、支配者ローマに貢ぐ徴税人。どうか、家族の中から徴税人だけは出してくれるなといわれたほどの、最も忌むべき徴税人になりさがった彼。その人生に、挫折の悲しみを感じます。

 いったいなぜ「レビ」は徴税人になったのかはわからない。しかし、親の期待を裏切り、仲間を裏切る徴税人の仕事を、彼は、決して喜んでやっていたとは思えません。挫折感、劣等感を日々、感じながら、生きていたのではないか。

 私は牧師になる前、自衛隊にいたわけですけれども、自衛隊というのは、人によって大きく好き嫌いが分かれる。ある人たちは、なぜ戦争屋のような仕事をするのかと、そのような目で見ることもある。それゆえに、自分自身もどこかで、形見の狭い思いを感じ、いわれのない劣等感を感じることもありましたから、この徴税人、レビの気持ちが、すこしわかる。一生懸命頑張って生きていても、人々から理解されず、さげるまれてしまうむなしさがわかる。

 自分の生きている人生に、心からの喜びをもてない。いつもこころのどこかで、自分は、これでいいのだろうかと、むなしさを感じながら生きる日々は苦しいものであります。そんな空しさをこの徴税人「レビ」も、感じていたでありましょう。

 そして、そんなレビの心の内を、イエスさまは知っておられたからこそ、彼に呼びかけられたのではないか、そして、「レビ」は、自分の人生に空しさを感じていたからこそ、イエス様の呼びかけに、なんのためらいもなく、その場ですぐに決断し、立ち上がった。あっさり徴税人という生活の基盤を捨てて、イエス様に従う決断をした。

 「レビ」が、信仰深いからではなく、彼の心の中に、飢え乾きがあった。空しさがあった。変わらなければならないという思いがあった。それが、イエス様の招きに答えて立ち上がらせる、力ともなった。そう思います。

 徴税人としての、安定した生活を捨てるということは、そう簡単なことではない。しかし、このレビは、たとえ毎日楽に生きていけるとしても、むなしいだけの人生ではなく、経済的には苦しくとも、イエス様に従う道を選んだ。この方に従うところにこそ、本当のいきる喜びがあると信じた。

 レビは、その決断をしたのであります。

 そして、新しい人生の出発の喜びを、徴税人の友達とともに、イエス様を招いて喜ぼうと、宴会を催した。ところが、律法学者たちがそれをみてつぶやいた。

「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」

 当時、食事を共にするということは、最も深い交わりの形でありましたから、罪人と食事を共にするということは、自分も同類になるということを意味したわけです。

 律法学者たちは、町に出て、何かをさわったら、もしかしたら、神の教えをまもらない、そういう汚れた人間に触れたかもしれないと恐れて、かならず家に帰ってから、水で手や体を清めるという生活をしていた人たちです。そのような人たちにとって、神様の法を知りもせず、それを守ろうともしない徴税人や罪びと、らと食事を共にするなどということは、考えられない。信じられない行為。理解出来ない振る舞いであった。

それに対し、イエスさまは、
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

と言われたのでありました。

 正しい人とは、本当に神の目に正しい人、ではなく、自分自身で、自分のことを、正しい人と思うこと。つまり、自己義認ですね。自分は正しいのだと認めている、そういう人を、イエスさまは、神の国の祝宴に招いてはおられない。そうではなく、自分で自分のことを正しいと思えない。自分は罪びとだと分ったひとを、悔い改めへと招かれる。そのために、わたしは来たのであると、イエスさまは言われたのでありました。

 これは、当時のユダヤ教に対する真っ向からの挑戦なのであります。律法学者たちにとって、神の国に招かれるのは律法を守り行っている人間であって、律法を無視するような人間は、神の国には招かれない。これが自明なことでありましたのに、これをイエスさまは、ひっくり返した。全く逆のことをここで宣言された。「義人」が退けられ、「罪びと」が受け入れられるというのであります。そうであるなら、律法を守ること、正しく生きることは無意味ではないか。これが神様に対する冒涜でなくて何であろうかと、律法学者たちは怒ったのでありました。

 マタイの福音書の同じ記事をみますと、イエスさまは、こんなこともいっています。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(ホセヤ六・六)とはどういう意味か、言って学びなさい。

と、こんな言葉を語っておられます。

 神が求めておられるのは、いけにえではなく、憐れみなのだ。それを学んできなさいと、イエスさまは律法学者にいうのであります。

いけにえではなく、あわれみ。

 律法主義とはなにか。それを一言で言えば、「いけにえの宗教」であります。すなわち、人間が神様に捧げる、よいいけにえ、献げものによって、人間と神様との関係はきまる。どんな、すばらしいいけにえを献げればいいか、それこそが、一番の関心となる。それが「いえにえの宗教」であり、律法主義なのであります。神が与えた律法を守る、それこそが、神に捧げるべき、よきいけにえ。それをささげたものこそが、「正しい人」。「義人」として神に受け入れられる。これが「生け贄の宗教」。それに対して、イエスさまが示されたのは、「あわれみ」であります。「憐れみの宗教」。「めぐみの宗教」といってもいいでしょう。人がどれだけよきものを神に捧げたかではなく、何も捧げることができない人間に、神はそのあわれみをもって、交わりの手を差し伸べてくださった。それが「あわれみ」であります。私たちの天の父は、いけにえではなく、憐れみをこそ求めるお方。義人ではなく、罪人を招かれるお方なのであります。

 教会も同じように、義人ではなく、罪人を招くところであります。人々から、そんな人と一緒に食事をして、と、批判されるような、そういう人こそが、実に教会に招かれるべき人なのであります。

 イエスさまが全ての人の罪を背負って、十字架の上で死んでくださり、そうまでして、罪を赦してくださったことがわかったなら、もはや、自分の行いを誇るような、愚かなことはできません。十字架が本当に分ったら、いっさいの自分の誇りは消え失せる。それが、十字架がわかる、神の恵みがわかる、ということだからであります。そして、十字架が分ったら、律法主義からも自由になる。人を責め、自分を責める、いえにえの宗教から自由になるのであります。神様の献げよ、と、自分を責め、人を責める、いけにえの宗教から解き放たれるのであります。教会は、いえにえの宗教ではなく、憐れみの信仰に生きる群れであります。

 わたしは、こんなに神様のために尽くしたのだと、自分を誇る宗教、いえにえの宗教ではありません。神はこんな罪深いわたしを、憐れみ、恵みをあたえてくださったのだと、声を大にして、人々に証し、宣べ伝えていく群れなのであります。

 驚くばかりの恵み「アメージンググレース」を作詞したジョンニュートンは、奴隷船の船長から回心して牧師にった。そんな彼は死ぬ間際、自分はどうしても忘れることができないことが二つあるといいました。一つめは、かつて自分が神の前に大きな罪びとであったこと、もう一つは、そんな自分を罪から救うために、キリストが自分の身代わりになって十字架にかかって死んでくださったこと。この二つのことは、どんなに記憶が薄れても忘れることができない。そういった。

 逆をいえば、人生のその他のことごとは、究極的にはたいしたことではない。人生のなかで、どのような失敗があろうとも、成功があろうとも、自分のしたことなど、いつか記憶の彼方に消えていってしまうのであります。しかし、この神のあわれみ、恵みだけは、わたしたちを神の御国にへと招いてくれる、永遠の価値をもつ恵み。

 徴税人レビを、そのむなしい人生から立ち上がらせ、永遠の価値ある新しい人生へと歩み出させたのも、この恵み。神のあわれみであります。

私たちも、今週、この憐れみを受けたものとして、憐れみを示して、生きていくものでありたいと、願うのであります。