「収穫の主に願う」(11月15日世界祈祷週間礼拝メッセージ)

マタイによる福音書9章35節〜38節


今日は、八王子めじろ台教会のみなさんと御一緒に、世界祈祷週間の礼拝を、共に捧げさせていただく恵みに、感謝です。

日曜日の午前中に、たいていの教会は礼拝をしますから、なかなかほかの教会の礼拝に出席することはできないわけですけれども、いかがでしょうか。いいでしょう、花小金井教会の礼拝も。


わたしは、200人近い礼拝も、家族5人だけの礼拝も経験してきて思うのは、結局人数じゃないんですよね。礼拝は。

主イエスのみ言葉に、一緒になって、アーメンと心合わせる人が、そこにいる。違う人生を生きている一人ひとりが、週に一度、この1時間、心をあわせ、共感しあい、同じ神を見上げている。

八王子めじろ台教会の皆さんと、初めてお会いするのに、心一つになることがゆるされたこの一時間。

主イエスによって神を礼拝する恵み。神の実現してくださる平和と和解の現場。様々な人が、繋がりあえる現場。礼拝。

この平和の福音を伝えようと、繋がりを広げようと、約140年前に、中国大陸に渡った1人のアメリカ人女性。ロティームーン。

一粒の麦が、地上に落ちて死に、豊かな実りをもたらすように、1人の女性、ロティームーンの人生は、今に至るまで、覚えられ、影響を与え続け、神の国の収穫をもたらし続け、

今日も、この礼拝が捧げられています。不思議なことです。

1840年に生まれたそうですから、日本は江戸末期です。明治維新の27年前。

今、NHKの朝の連続ドラマ小説「あさが来た」で、広岡浅子(ひろおか あさこ)の話をしていますでしょう。明治・大正を代表する女性実業家。そして日本女子大の海の親。晩年にバプテスマを受けて、クリちゃんになった「ひろおかあさこ」が、1850年生まれですから。ほぼロティームーンと同じ年代。

今、朝ドラを見ると、ロティームーンが中国宣教をした時代というものが、少しだけ想像できるんじゃないですかって、別に、NHKの宣伝をしているわけじゃないですよ。

とにかく、ジェット機とインターネットがある現代ではなかった、という話です。アメリカから中国に行くだけでも、危険な長い船旅だったはずですし、まったく違う中国の文化、思想と出会い、それを愛し、その地に生きる人々と同じようになろうと、生き抜いたのが、ロティーという人だったんです。

しかも、都市部ではなく、農村部をめぐり、おそらく、今日のみ言葉のなかで、イエスさまがしておられたようにして、町や村々をめぐっては、神さまの愛を伝えようとしていたのでしょう。それは今の時代に生きる私達には、想像を絶する困難さであったはずです。

しかも、中国の地が、飢餓に襲われた時には、彼女は愛する中国の人々が飢えているなかで、自分だけが食べるわけにはいかないと、食べ物を口にせず、そのことが原因で、衰弱し、やがて天に召されることになった。

わたしたち「バプテスト」という仲間の歴史のなかに、「ロティームーン」がいてくれることは、カトリック信者がマザーテレサを誇るのと同じくらい、わたしたちは、誇りに思ってもいいのではないでしょうか。

それは彼女が、まるでジャンヌダルクのように、どんな苦難にも立ち向かう強い女性として、中国で伝道したという、そういう意味で、誇りに思っているのではないのです。


むしろ、反対に、おそらく私たちと何の変わることのない、弱さを抱えた1人の人でありながら、その弱さや、限界のなかで、なお「神の愛」に押し出されるようにして、中国の貧しい人々と、共に生きぬいた人だったから。

それは、1人で頑張り抜いた人生ではなく、どうかともに働く働き人を送って欲しいと、本国の教会に手紙を書き、助けを求めて、現地の人のためにと、生きた人だったから。

そうであったからこそ、彼女の働きを支えようと、クリスチャンの女性たちの働きが起され、クリスマスには献金が捧げられ、

今も、「世界祈祷週間」として、この日本の女性たちも熱く覚えつづけて、祈り、捧げ、

昨日も、遅くまで女性の方々は、午後のバザーの準備をしておられたんですよ。その熱意、パッションの源となった、ロティーは、わたしたちバプテスト教会の大切な存在  そして誇り。

今日、わたしたちは、約140年前に中国に渡った、ロティームーンの祈りと願いを受け継ぐようにして、主に向かって、どうか働き人を送ってくださいと、祈るために、集められているのです。

そういうわたしたちも、だれかが、わたしたちに、福音を語ってくれたから、そして、神に愛されていることを知ったから、今、ここにこうしているのではないですか。

それは、人生の悲しみの時だったかもしれません。悩みの中か、不安の中か、罪に苦しむなかだったかもしれません。

飼い主のない、羊のように弱り果て、打ちひしがれていたとき、


そのわたしたちの、悲しみ、苦しみを、同じ人間として味わい知り、

その罪のゆえの恐れと苦しみを、すべて受けとめ、十字架についてくださった主イエスこそが、

わたしたちをこの上なく愛し、憐れんでおられる、天の父の愛を、示してくださったのだと、

この神の愛と憐れみの福音を、わたしたちは、聞いたからこそ、この愛と憐れみこそが、

羊飼いのない羊のように弱り果てた、わたしたちを、立ち上がらせてくださる愛なのだと、信じたからこそ、

わたしたちは、今、ここに集められて、礼拝を捧げているのです。

たとえ、地上の人生が、嵐のような日々であっても、

その嵐に揺れる舟の中には、主イエスがいてくださることを知り、

主は、わたしたちがどんな状態であろうとも、いつも憐れみ、共にいてくださる、福音の喜びを知ったからこそ、

わたしたちも、この喜びをだれかに伝えたくて、の礼拝から、それぞれの生活の場所に、遣わされて行く働き人。

川の水は、流れ続けるからこそ、土地を潤し実りをもたらすように。

わたしたちが聞いた福音の恵みは、わたしたちの口から、まただれかへと流れ流れて、神の国の豊かな実り、収穫へと至るのです。


さて、先ほど朗読された御言葉は、主イエスが、町や村を残らず回り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたことから、話しが始まっています。

これはある意味、主イエスの働きの要約です。

エスさまは、なぜそのような大変な働きを、なさるのでしょう。その動機はなんなのでしょう。ご自分の満足のためでしょうか。

36節に、その理由が書かれています。
「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」からだと。

飼い主のいない羊。愛し導く方のいない、人の孤独、さびしさ。

打ちひしがれている羊のような、人々の姿。

わたしたちもきっと、そのような1人であったのではないでしょうか。本当の自分を見失い、弱り果て、打ちひしがれて弱っている羊のような時が、わたしたちにもあったのでないでしょうか。

そのような羊を、人間を、主イエスは、深く憐れんでくださいます。

この「深く憐れまれた」という言葉は、もうご存じの方も多いでしょう。もとのギリシャ語では、はらわたが痛むという言葉です。

つまり、誰かの悲しみ、苦しみのために、ご自分も痛んでしまう。痛む愛。痛む憐れみです。

「おかわいそうに」と、同情しても、自分は痛まないでいられることは出来ます。しかし、主イエスのこの「深い憐れみ」とは、ご自分が共に痛む憐れみなのです。共に悲しみ、共に苦しむ、憐れみなのです。

 ロティームーンは、中国が飢餓に苦しむ時、本国アメリカに帰ることもできたのです。そうしてよかったのです。なのに、飢餓に苦しむ人々と同じように、自分も苦しむことを選んで、同じようになりたいと、食べ物を口にしなかった。愛する人たちと、同じようになりたいと願わせる、その彼女の中に流れていた、深い憐れみ。それはまさに、主イエスが人々を見て、感じていた深い憐れみと、同じでありましょう。

ティームーンの中に、主イエスは生きて働いておられたに違いない。彼女の中に、主イエスはおられたに違いない。。

それは、あの時代に、中国にまで出かけて行った大胆さ、勇気のゆえというよりも、

むしろ彼女の弱さ、限界、欠けのなかで、だからこそ神に祈り、神に必死に願い、主イエスの深い憐れみの心と、一つになった、その姿のなかに

わたしたちは、復活の主イエスを見るのです。主が確かに働いておられることを、見るのです。


エスさまは、弟子たちに言われました。
37節

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と

なぜ、イエス様は、弟子たちに対して、働き手が少ないのだから、あなたも神の働き手になりなさい、とまっすぐにいわれないのでしょう。

なぜ、回りくどくも、収穫の主に願いなさい」、祈りなさいと、言われるのでしょう。

それは、神の働きというものが、伝道というものが、自分も頑張ればできるという、単なる自己実現に陥ってはならないからではないでしょうか。

あの主イエスの「深い憐れみ」の心を、祈り求める祈りがないままに、

誰一人として、神の愛の伝える働き人として、歩むことなどできないのだから。

もちろん、人を救うのは、神であり、人ではありません。

人がどんなに誠実であっても、優しく振舞っても、人は人を救うことはできません。

そんなことができるなら、主イエスは十字架につく必要などなかったからです。
人はどこまでいっても、自分の罪を抱えて生きるしかない、不完全な存在。それはロティームーンも、わたしたちも同じです。

であるからこそ、だからこそ、祈りがなければ、人は神の働きなど、できるわけがなく、
祈りがなければ、神が、わたしたちを通して、働いてください、あなたの働き人にしてくださいと、

祈らなければ、人が何をしようとも、神の働きにはならない。

主イエスの、あの「深い憐れみ」の心が、わたしたちを通して、この地上に現わされ、神の愛が流れることはない。

祈りによって、祈りによる、愛の神との、深い交わりの中で、

神の愛と、主イエスの憐れみは、まず、祈る人から、この地に現れ、流れていくのだから。

私たちの花小金井教会は、福島の「郡山コスモス通り教会」を覚えて、特に祈祷会で毎週祈り続けています。

その福島の地に、去年の7月、金子牧師が、九州の地から赴任されました。

福島の地で、原発事故の被災を、いまだに生き、不安のなかで、飼い主のいない羊のように、打ちひしがれた人々と、同じようになって、苦しみを分かち合うために、その地に遣わされて行きました。金子牧師の中にも、わたしたちは、主イエスの「深い憐れみ」の心が、ながれていることを、みるのです。

カンボジアの地に、インドネシアの地に、それぞれに遣わされて行った、嶋田宣教師夫妻、野口宣教師夫妻も、その地に生きる人々と同じようになって、喜びも、苦しみも、共にしようと、出かけて行きました。

これは、祈りがなければ、起こるはずのない、神が働かれた出来事です。


主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたちに言われます。「収穫の主に願いなさい」、祈りなさいと。

もし、主イエスが「あなたも働き人になりなさい」と言われるなら、それはわたしたちには、難しいことと思うでしょう。

しかし祈ることなら、だれであろうと、今すぐに出来るのです。祈りは、すぐに実践できるのです。

そして、イエスさまは、厳しいこの世界の現実をまえに、

弱り果て、打ちひしがれている人を御覧になって、ひと言、祈れと言われるのです。祈ることは、今すぐに、誰にでもできる、神の憐れみを、この地にもたらす、最善の働きであるから。

パウロは、ローマの教会に向かって、こう言いました。
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」と

ヤコブの手紙を書いた信仰の先輩は、教会にあててこういいました。
「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」と


祈ることは、主イエスと、主イエスの「深い憐れみ」の心を、つなげられることであるから。

打ちひしがれた誰かを思い、そのために、自分の時間を捧げて祈ることは、自分の命を、そのために使うこと。捧げることであるから。

誰かを覚え、神の助けを祈る人こと自体、神の国の収穫のための、働き手とされるということであるのです。

それは、すぐに目に見える変化や結果があろうと、なかろうと、

あきらめることなく、失望せずに祈り続けること。

エス様が、願いなさい、祈りなさいと言われたのなら、それこそが、最高の神のミッションなのだから。

主イエスは、言われました。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる
だれでも、求めるものは受け、
探すものは見つけ、
門をたたく者には開かれる」

「あなたがたの天の父は、求めるものによいものをくださるに違いない」と

そうイエスさまは、約束されたのです。

「収穫の主に願いなさい」

これは実に重要な、わたしたちに託されている、神のミッション。神の働き手に託された、重要なミッション、使命です。

たとえ1日に、1言であろうと、1分であろうと、5分でも、1時間でも、

自分の時間を祈りに捧げる時、

必ずこの世界は変わる。主イエスの深い憐れみが、わたしたちの祈りにおいて、この地に流れ初め、現わされ、この地は変わっていくはず。

それは、ほかのだれでもない、祈る人自身のなかに、主イエスの深い憐れみが現われ、実現していくはずだから。

祈りは、この世界を変える最高の力。それは、祈る人自身から、やがて世界のはてに至るまで、及ぶ神の憐れみ。

さあ、この世界祈祷週間をきっかけに、共に「収穫の主に願い求め」始めましょう。

祈りという、重要な働きに、ミッションに、主がわたしたちを招いておられます。

共に主の働き手となって、さらなる働き人を、主に祈り求めようではないですか。

祈ります。