9月16日花小金井キリスト教会 礼拝メッセージ
ルカによる福音書6章37節〜38節
37
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがた赦される。38
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で秤返されるからである。
一週間のお休みを頂いて、先週皆さんとお顔をあわせなかっただけなのに、なんだかとても久しぶりの気がいたします。
あらためて、今日、すべてが守られて、この場に集い、互いに顔と顔をあわせられることを、心から感謝します。
そして、今も、旅の途中にある人がおられますし、病の床にある人も、また、今日も事情があって、この場に集えない1人1人も、
すべてを見とおしておられる、主なる神さまの、愛の手のなかにありますし、目には見えなくても、私たちはいつも、主にあってつながっています。
先週、花小金井教会は、「平和主日礼拝」を捧げましたね。そのちょうど同じころ、わたしたち家族は、ここから400キロほど離れた、山形県の酒田市のとある会議室で、平和を思い願いつつ、数人の礼拝を捧げていたんですよ。
そうなんです。今、目の前に見えなくても、認識できなくても、すべてを身通しておられる神さまからみれば、
場所の違いとか、人数の違いとか、文化や、時代の違いさえも超えて、わたしたちは、主にあって、つながっています。
今、目に見えないあの人、この人、
H.Sさんのお腹の中にいる、今はみえないけれども、やがて見えるようになる、あかちゃんとも、今、すでにわたしたちは、主イエスにあって、同じ時を過ごしています。
この、人間の限りある、限界ある認識、というものを超えて、すべてを身通しておられる、神さまにあって、わたしたちは、繋がれている。
このことを、信じて、様々な違いをこえたつながりを信じる、そんな、人と人との間に、キリストの平和は実現しているのではないでしょうか。
実は、酒田に二日間滞在した後、私の母が1人暮らしをしている、佐渡島にわたったのです。その、ちょうど同じころ、教会員のMさんが、佐渡の弟さんのところにいっていたので、あえるかなと思いましたけど、すれ違いで会えませんでしたけれども、お寺の住職をしている弟さんにお会いできて、ご挨拶出来て感謝でした。
実は私の祖父も、佐渡で「真言宗」の寺の住職をしていたのです。私の家系は寺の家系ではなかったのですけれども、祖父は、ある日突然出家したようなんですね。小さな寺の住職をしていました。ですから、わたしの母は、寺の娘として生まれて、息子が牧師になったわけですね。わたしたち家族が母のところにとまると、わたしたちが食前のお祈りをするものですから、母も付き合わされて、いますけれども、最近は、何も言わずに、一緒にお祈りするようになってくれて、感謝しています。
人間の限界ある認識、眼差しでは、住職だった祖父と、牧師のわたしとは、全く違う世界に生きているようにみえる。
極端なことを言う人は、お坊さんは救われるんですかと、そんなことをいうかもしれません。
しかし、それはすべて、人間の限りある認識、自分の目に見えること、自分のちっぽけな考えで、判断しているのではないですか。
あの、海の水を、自分の小さなバケツひとつで掬って、海とはこういうものだと、分かるわけがないように、
神の「救い」であるとか、神の「赦し」という、わたしたちの思いを遥かに超えた、神の御心を、神の意思を、限界ある人間が、見通せるわけがないわけです。
救うのは神であり、人ではありません。
ご自分の大切な御子イエスさまを、与えてくださるほどに、この世界を愛された、憐れみ深い天の父が、
その「はかりしれない愛の御心」をもって、すべての人を赦し、罪から解き放ち、神に愛されている子へと、救いだしてくださる、その神の恩寵。神の一方的な愛。海のように広い神の愛。福音に出会う時、わたしたちの小さな心は、少しづつ、広げられていくことでしょう。
さて、先ほど朗読された福音書の箇所は、「敵を愛しなさい」と語られた主イエスが、続いて語られた「人を裁くな」という言葉を読みました。
もう一度37節の言葉に聴きましょう。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
とても有名な言葉です。あらためて、解説する必要もないと思います。
おそらくこれらのイエスさまの教えは、当時、あちらこちらで語ったものが集められて、ここに編集されたようです。マタイにも山上の説教という形で、まとめられていますけれども、このルカの福音書では、特に、12人の弟子たちを選んだあとに、弟子たちを見ながら、これらの教えを語られた、という文脈に置かれているのですね。
もちろん、当時の律法学者とか、民衆にも語られたのでしょうけど、これらの言葉をここにまとめたルカの福音書の意図からするなら、一般論というより、むしろ、イエスさまの弟子である、のちの教会。つまり、イエスさまを信じて従う、わたしたちへのメッセージとして、まとめられていると、受け取りたいのです。
「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」と言われています。よく、教会の中でも、「裁いてはいけません」とか「裁かれた」といういい方をしますけれども、イエスさまは、ここで裁くなとは、そもそもどういう意味で言っておられるのでしょう。裁判もいけないという話でしょうか。
そうではなく、38節の後半で、言い代えられていわれているように、ここでいう「裁く」とは、つまり「自分の秤」で量る、ということでしょう。
裁判は、法律というルールのもとにジャッジしますし、ボクシングでも、サッカーでも、野球でも、ルールのもとにジャッジする審判がいなければ、ゲームは成り立たない。そんなところに「裁いてはいけない」ということを持ち込む話ではないんです。
そうではなく、誰もが心の中に持っている、「自分の秤」。もっとはっきり言えば、「自分に都合のいい秤」で、お互いに量りあっては、罪に定めて、争い合うことをやめなさい。赦しあいなさいということを、イエスさまは言われているのではないでしょうか。
週報にも書きましたが、
アメリカの大手民間調査機関が、発表した世論調査で、アメリカ人の56%が、今だ日本への原爆投下を「正当」と答えていることを聞きました。原爆投下は、あの悲惨な戦争を早期に終わらせ、これ以上の犠牲を生まないための、「正当」な行為。
いわゆる、そういう「自分たちの秤」で量っています。
また、わたしたち日本人においても、あの太平洋戦争について、日本だけが一方的に悪いと断罪されるのは不服だと、考えるかたも、少なからずおられるし、そのような主張が権力をもつ人々の間に広がっているようにも、見える。
しかしそれもまた、「自分たちの秤」
イエスさまは言われます。「あなたがたは、自分の量る秤で量り返される」(ルカ6:38)と。
「自分の量る秤」で自分の行いを正当化してみても、「相手の量る秤」が待っているのです。
互いに、相手の前に立って、「自分の秤」を持ち出して、量りあうところに、平和がやってくるでしょうか。
藤木正三という牧師さんが、こんな言葉を残しています。
「神の前」
「人の罪だけを見ている時は、私たちはその人を裁いています。
そして、その人の前に立っています。
自分にも同じ罪があると思うに至った時は、私たちは反省しています。
そして、自分の前に立っています。
人の罪より自分の罪の方が大きいと思うに至った時は、
私たちは罪そのものを見ています。
そして、神の前に立っています。
その際自分の罪が人のよりも小さく見えたり、同じ程度のものに見えている間は、
まだ神の前に立ってはいないと、注意しましょう。
神の前とは、自分の罪が人の罪より、
必ず大きく見えるところですから。」
「神の前とは、自分の罪が人の罪より、必ず大きく見えるところですから。」
この言葉に、しばし立ち止まり、心探らずには、おれません
預言者イザヤは、神の前に立った時こう叫びました。
「災いだ、わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者
汚れた唇の民の中に住む者
しかも、私の目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た」
イザヤ書6章の出来事です。
神の前に立つ
それはイザヤにとって、自分の言葉が、考えが、なんと汚れているのかが、大きく見える現場でした。
自分が、これが正しいと主張してきた思想、立場の、その狭さ、限界、至らなさ、的外れ具合に、直面させられる、謙遜にさせられる場。
神の前に立つ場。礼拝。
しかし、イザヤのその唇に天使セラフィムが炭火で触れて
「見よ、これがあなたの唇に触れたので、
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」
と宣言します。
神の前に立つ。礼拝とは、自分自身の罪に向き合い、だれよりも自分自身の罪の大きいことにおののき、
その自分にはどうにもならない罪を、だれも、人間には、赦しようのない罪を、
神は赦すために、神の御子、イエスキリストのいのちをさえ、犠牲にしてくださったことを、
その途方もない、計り知れない、大海のごとくの神の愛に直面する現場。
わたしたちは、すでに赦されているのです。
神はあなたを赦しているのです。
ゆえに、「だれかを赦す」ということが、神に赦していただく条件などではなく、
神がどれほど、自分を愛し、赦してくださったかを悟ることこそ、
私たちの心を、人を赦す思いに、解き放つのです。
わたしたちが、だれかを赦すとき、もっとも、わたしたちが、すでに神に赦されていることが、証されるのです。
だから、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」と、イエスさまはいわれます。
「自分の小さな秤」で、「こうあるべきだ」という「自分の秤」で、あの人、この人を責めずにいられないのは、心が渇いているのだから。
自分がどれほど神に愛され、赦されているのか。
そんな「自分の秤」を持ち出して、自分を守らなくても、人を責めなくても、そのままで、その不完全なままで、罪あるままで、
どれほど神はあなたを憐れみ、愛を注ぎ続け、すべての善きものを、与え続けておられるか。
その、神の愛に、心を開きましょう。まっすぐに、今、神に愛されていることを、赦されていることを、赦しの恵みを、受けていることを・・・・
あの「レミゼラブル」という物語のなかで、かつて自分を苦しめた者への憎しみに取りつかれていたジャンバルジャンが、
牢獄から釈放され、泊めてもらった司祭を裏切る形で、夜中に銀の食器を盗みだし、姿をくらましてしまった、その翌日、
警察に捕えられて、司祭の前に連れてこられたジャンバルジャンに、司祭はなんのためらいもなく、
「おおきみか。あえて嬉しいよ。君に食台も上げたのを忘れたのかね」と語りかけた司祭の姿。
「この銀の食器は、私が彼に送ったものです」と憲兵に取りなし、彼の赦しを願う司祭の姿
この赦しの出来事が、彼を決定的に変え、奪う者ではなく、身をなげうって人々に仕え、与えるものへと変えていく、という
この物語は、まさに先に無条件に注がれる、神の赦しと愛に目覚める時、出会う時、
人は憎しみから解放され、赦すものとされ、与えるものとさえなっていくことを、物語っています。
38節でイエスさまは、言われます
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」
自分が与えられたいから、人に与えなさいという話しではありません。すでに計り知れない恵みを、赦しという恵みを、与えられていることに気づくとき、人は、与えずにはいられないものとされるし、
それゆえに、与えることは、すでに与えられているということに他ならないのです。
すでに、あなたのために、神は、主イエスのいのちを与えてくださっているのですから。
決してなくなることのない、宝を。今までも、今も、これからも、地上の人生が終わった先にも、なくなることのない宝を、
主イエスというこの上ない宝を、神はわたしたちのなかに「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらった」のですから。
この礼拝の中で、神の前に立ち、神の赦しの愛、すでに注がれている宝に気づき、目覚めるとき、
裁かずにはいられなかった、渇いた心が満たされ、
赦しあう平和が、またあらたに実現していくのです
祈りましょう。