先週から、夏季休暇を一週間いただき、そのうちの二日間は酒田にいっていました。
3月の最後の日曜日に、酒田のぞみキリスト伝道所で最後の礼拝をささげ、
その次の日に引っ越し、そして翌週の日曜日には、花小金井キリスト教会の牧師として歩み始めることになって、4カ月
目の前のことだけを見て、ここまで歩んできたのですけれども、
やらないままここまで来てしまった、酒田で生きた8年半の物語の振り返りを、してみたくなったのです。
思えば、家族だけで知らない土地にやってきて、借家の礼拝の日々。
ずっと考えていたのは、この時代、この現場における教会とはなんだろう、伝道とは、なんだろうということだったし、
それでも、とにかく、それまで学んできたこと、考えてきたこと、限られたリソースの中で、できることをやってきて、
あるときは、うまくいったように見えたり、またある時は、だめだったように思えたり、そんな経験を沢山いただいて、
結局、振り返って思うのは、
「神が置いた場所で、出会い、生きること」 「イエスと共に」
ただそれだけでよかったんだな。
ということをしみじみと思う、再会をいっぱいいただいた旅でした。
「1人に届く」
政治は出来るだけ多くの人に届くように、その手を伸べるべきものでしょうが、それでもなお届かない深さで悲哀をかみしめているのが人間なのです。
この悲哀に届くはずのものが宗教なのですが、
現実には宗教も多くの人の救いを考え過ぎて、
1人の、その人だけの悲哀に届かない一般論に堕ちているようです。
多くの人に届かないとしても、その無力は誇りこそなれ、
恥では決してないのが宗教ですのに、いたずらに恥じて焦っている傾向があります。
宗教の生命は1人に届く暖かさであって、多くの人に届く普遍性ではありません
「神の風景」(P.79) 藤木正三
「イエスの隠された人生」
イエスの生涯の大部分は隠されていました。
イエスは両親と共に、両親に仕えてナザレに暮らしていました。
それでイエスは「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」ました。
イエスについて思いを巡らす時、多くの場合イエスが語られたことや奇跡、受難、死、復活が頭に浮かびますが、
何よりもまずイエスは偉大な人々や偉大な町、偉大な出来事からはるか遠く離れた小さな町で、
簡素に、隠れて生きておられたことを忘れてはなりません。
イエスの隠された人生は、わたしたち1人ひとりの霊的な旅路にとって、とても大切です。
み国のために、言葉と行いによってイエスに従おうとするなら、
何よりもまず、簡素であまりぱっとしない、
ごく普通の隠れた生活の中で生きられたイエスに従う努力をしなければなりません」
「今日のパン、明日の糧」(P.276)ヘンリ・J/M/ナウエン