「悪魔の誘惑に勝つために」

shuichifujii2006-05-01


4月26日祈祷会メッセージ
ルカ4章1節〜13節

4:1 さて、イエス聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
4:2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
4:3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
4:4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
4:5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
4:6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
4:7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
4:8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4:9 そこで、悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』
4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」
4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


 祈祷会では去年から今年にかけて、旧約聖書の歴史を学び、そして受難週イースターとその聖書箇所から学んで参りましたけれども、今年一年間は、ルカの福音書から御言葉を取り次いでいきたいと思っています。それには、少しわけがありまして、日曜日の小学科も今年一年間、ルカの福音書を学ぶのですけれども、その聖書箇所と同じ所を、祈祷会でも学んでいこうと思っています。そこには、もちろん、小学科の教師のかたに祈祷会に来て学び準備して頂きたいという願いがあるわけですけれども、同時に、やはりイエスさまのお姿に触れる福音書は、繰り返し繰り返し学び続けていきたいという、そういう願いがあるわけであります。

 こんどの日曜日の小学科の聖書の箇所とあわせて、祈祷会でも学んでいきたいと思っていますけれども、今日は、4章の1節〜13節。悪魔から誘惑を受けるという内容であります。

 30歳になったイエスさまが、いよいよ伝道を始められるにあたって、悪魔の誘惑を受けるということが必要であった。いわば、これからの厳しい伝道の生活に突入するに際して、天の父なる神から与えられたテストと、そのように理解することも出来ようかと思います。なぜならば、「霊」によって、つまり、神様の霊の導きによって、イエスさまは荒れ野の中を引き回され、誘惑を受けることになるからです。神の霊の導きがあったのだというわけであります。

 ですから、誤解を恐れずにいうならば、誘惑を受ける事自体が、必ずしも悪いことだと言い切れない。ある意味、訓練として、あえて小さな誘惑を赦されて、それに打ち勝っていくことが必要なのではないか。
 もちろん、そもそも誘惑に会わないように逃げ回ることも必要ですけれども、特に現代のような、インターネットの時代になれば、どうしても、誘惑にとりかこまれるわけです。だからといって、いまさら、アーミッシュのような、隔離された文化生活を送るわけにはいかない、となれば、誘惑に打ち勝ち、ながされないようになるしかない。

 ある意味、イエスさまも、そうなさったわけでしょう。だからこそ、ここにこうして誘惑の記事があるのだろうと思います。イエスさまは、神の御子でありながら、私たちと全く同じ人となられた。誘惑に心揺れる、そういう私たちと全く同じ人となられた。そのうえで、誘惑に打ち勝ち、十字架への道を全うされたことに、意味がある。そうなれば、ここでイエスさまがあわれた誘惑は、神に従って生きようと願うわたしたちにとっても、誘惑であるはずだし、また、同じように共におられる主イエスさまに助けられながら、打ち勝っていくべき誘惑であろうと思います。

 それでは、簡単に、その誘惑の内容を見ていきましょう。

3節には、空腹のイエスさまに向って、悪魔がこういっています。

「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」
そういいました。

一番目は、食べるということ。つまり、命のこと。生きることに関する誘惑であります。

 神様がおられるなら、神様が愛してくださっているなら、わたしに本当に必要な物は、神様が与えてくださるのだという、そういう信頼をもって生きていくのが、キリスト者でありますけれども、その信頼をぐらつかせようとする、そういう誘惑でありましょう。神はあなたを助けてなどくれない、自分の力でパンを手に入れよ、と、神への信頼を試す、そんなテストであります。

 わたしはかつて、自衛隊に13年間いて、そこをやめる前に、正直、この誘惑を強く感じました。この仕事を辞めたら、まともに生きていけないのではないか。食べて行けないのではないかという、そういう誘惑が襲ったわけです。神様を信じてはいましたけれども、自分は、神様が生かしてくださっているのだと、そう思っていたし、そう口にしてもいましたけれども、でも、どこかで、仕事にしがみついている自分がいる。神様神様といいながら、実は、仕事によって生かされているように思っている自分、仕事が神様になってしまっている、そういう誘惑というものを感じてきたわけであります。

 イエスさまもまさにここで、天の父なる神ではなくて、神の子なら、自分の力で、岩をパンに変えて生きたらどうだ。神など信じず、自分の力を、仕事ができる自分を信じ、いきぬいたらどうかと、そういう誘惑であります。

それに対して、イエスさまはこういわれたわけであります。

「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある。

と、書いてあるのはどこかと言いますと、旧約聖書申命記というところですが、そこにはこう書いてあるわけです。
ここは是非、あけて読んでみたいとおもいますので、開けましょう。

8:2 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 昔イスラエルの民は、神様によってエジプトの奴隷から解放されて、そして、約束の地を目指して40年もの間だ、荒野の旅をいたしました。何で40年もかかったのか。それは、まさに、自分ではなくて、神を信頼する人間になるために、自分の考えではなくて、神様の教えに聞き従う、そういう民になるために、40年、彼らは荒野を旅したわけです。

8:3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 旅の途中で空腹になったとき、神様はマナという不思議な食べ物を与えて養ってくださった。それも一日に一日分しか下さらない。そうやって、明日もきっと神様がパンを下さることを信じて、今日一日のパンに感謝して生きるように訓練されたわけであります。まさに、人は、パンだけで生きているのではない。私たちを生かしておられる神様の、その言葉によって、私たちは生かされているのだと、そのように、自分ではなく神に信頼していきる民になるように導かれていったわけでした。

 もちろん、パンがいらないわけではないけれども、しかし、パンさえあれば人は生きられるわけでもない。世界では、豊かな国ほど、自殺率が高いことからしても、パンがあっても人は生きられないことがある。本当に自分を造り、生かしておられるお方との交わりがなければ生きられない。その言葉を頂かなければ生きられない、そういう自分に気が付くとき、この一番目の誘惑に打ち勝つことが出来るでありましょう。

 さて、二番目は、権力と繁栄の誘惑であります。ある意味、これはわかりやすい誘惑ですけれども、しかし一方、これが誘惑だというなら、クリスチャンとは、常に、無力で貧乏であるべきだと、そういうことなのか、と、いうなら、それもちょっと違うでしょう。まさか、クリスチャンの政治家や、クリスチャンの実業家やお金持ちは、この誘惑に負けたのだと、そういうことでは無いわけです。

 ここで大切なのは、悪魔がこういっていることであります。
「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」

ということであります。つまり、ここで本当に問題となっているのは、本当の誘惑なのは、権力でも繁栄そのものではなく、悪魔にひれ伏すことであります。神に従うのではなく、悪魔に従うこと。そこにこの誘惑の本質があります。

 権力とは別の言い方をすれば、支配力です。言葉一つで、人を動かす力と言っても良いかも知れない。権力を全く否定すれば、無秩序のアナーキズムになる。だから権力は必要。しかし、往々にして、人は、権力を正しく用いることができず、自分のために他人を支配することに用いてしまう。自分のために他人をコントロールする誘惑、悪魔の誘惑にのってしまう。

 それはなにも政治の世界だけの話ではなく、妻が夫を、夫が妻を自分のためにコントロールしたいという誘惑があるわけです。もし、相手が自分の言うとおりに動かないと、腹を立てるなら、それはすでにこの誘惑に載せられているのかもしれません。人がいうことを聞かないと怒るとするなら、この誘惑に負けているのかもしれません。

 イエスさまは、人々に仕えて貰うためではなくて、仕えるために、仕えて、ご自分を十字架の上に犠牲になさって、私たちを救ってくださるために、この世に来られたと聖書は記しています。(マタイ20:28)

 さらに、イエスさまは上に立ちたいと願うものは、全ての人の僕となりなさいともいわれました。そして、イエスさまはまさに、そのように生き抜いて、神の御子でありながら、全ての人の僕となられたわけであります。それが悪魔ではなく、神に従う生き方だからであるからです。

 8節でイエスさまは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。といわれました。これも旧約聖書からの引用です。旧約聖書に出てくるダビデ王は、まさに主に仕える王であり、そんなダビデは、王としての権力を、自分のために用いなかった。自分のためではなく、民のために、民を愛し仕えるために、その力を用いたわけです。わたしたちも、悪魔の誘惑にのって、互いに相手を支配しようとしないでいたち。互いに仕えあい、愛しあうものでありたいと、そうねがいます。

 最後の誘惑は、聖書の言葉を自分勝手に用いるという、そういう誘惑でありました。

「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」そう書いてあると、悪魔は言います。
これは詩編91編11節の言葉なのですが、そちらを見ますと、実は、こう書いてあります。

91:11 主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

 おわかりになるでしょうか。実は、微妙に違うわけです。詩編の方は、あなたの道のどこにおいても、守られるといわれているのに対して、悪魔は、「あなたの道のどこにおいても」という言葉を削ってしまっている。つまり、もともとの詩編は、たとえ高いところから飛び降りても、神は天使に命じて、あなたを守るだろう、などとは言っておらず、ただあなたが歩む道において、主は守ってくださるという、そういう意味でしかないわけです。

 聖書の御言葉を、自分の考えを肯定するために使う。これはまさに、誘惑だと思います。聖書の言葉に自分が問われるのではなくて、自分の考えを肯定するために、聖書の言葉を利用する、そういう誘惑があるわけであります。

 さて、このような誘惑にイエスさまは打ち勝たれたわけですけれども、しかしイエスさまといえども、何もせずに、その誘惑に打ち勝ったのではなかったということは大切なポイントだと思います。イエスさまは、誘惑に打ち勝つために、40日、断食をして過ごされ、祈られたのでありました。わたしたちも、この誘惑というものを、甘く見てはならないと思います。イエスさまでさえ、誘惑に打ち勝つために、それくらいの熱い祈りを献げなければならなかったことを覚えたいと思います。誘惑に勝つ力は、祈り以外にないからであります。

 神を信頼することから引き離そうとする誘惑、他人を支配しようとする誘惑、そして、そのためには、御言葉さえ利用させようとする、そういう誘惑に陥らないための唯一の道。熱心な祈りの生活を守っていきたいと、そう願っております。