「苦難の日の祈り」

shuichifujii2006-04-20

4月19日祈祷会メッセージ

詩篇3篇

3:1 【賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子/アブサロムを逃れたとき。】
3:2 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3:3 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ
3:4 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。
3:5 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ
3:6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
3:7 いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。
3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。
3:9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ


 イースターの礼拝も大いに祝福されて、5名のバプテスマも与えられて、主は確かにいまも生きて働いておられることを心から感謝いたしました。

 マグダラのマリアは、自分の思いこみで頭がいっぱいで、そばにいて下さった復活のイエスさまが見えなかったですね。また、エマオの途上で二人の弟子が、イエスさまと一緒に旅をしていたにもかかわらず、彼らはそれがイエスさまだとは気がつかなかったのでした。

 イエスさまがすでに働いていて下さるのに、わたしたちの心が否定的になっていると、それに気がつくことが出来ないでじたばたしてしまうということがあろうかと思います。

 逆に、そのことに気がつくなら、イエスさまがすでに働いていて下さることに気がつくなら、わたしたちは、人間的な思いで、じたばたするよりもなによりも、そばにいて助けて下さる下さるイエスさまに祈るものとなるに違いありません。そして、本当に祈りが聞かれることを体験していくでしょう。

 今日は、先ほど、ダビデが歌った詩編3編を読んで頂きました。この詩編は、表題にもあるように、ダビデが息子アブサロムに命ねらわれ、逃れていた時に、歌った歌、祈りといわれます。苦難の中においても、ダビデは主が共にいることを忘れなかった。その証拠が彼のこの祈りであるわけであります。

 ダビデの息子アブサロムは悪知恵が働く男でありました。
 彼はダビデを追い出すために、城のまえに、朝早くからたって、ダビデ王になにか話を聞いて欲しい、自分の訴えを聞いて欲しいとやってくる人々を、門の前で待ち構えて、その人達の話を聞く。そして、一通り聞いておいて、アブサロムは、こういったとあります。「あなたの訴えはもっともだ。だが、ダビデ王の側には、あなたの訴えに耳を傾けてくれる人などいない」そういうことを、彼はくる人くる人に言う。そして、「私がこの国王であるなら、訴えや申し立てのある人の話をみんな聞いて、正しく裁く事が出来るのに」と、そういうことを吹き込むわけでした。

 人間というのは、まず自分の話を十分聞いてもらって初めて、相手の話をゆっくり聞こうと思う。だから、まず相手の話を忍耐して聞くということが人の心を捕らえるために大切であるわけですが、このアブサロムはそのことを心得ていたわけであります。賢い人は、なにか相手に訴えたいならば、まず、相手にしゃべるだけしゃべってもらって、最後に、こちらの意見を語れば相手は喜んで聞くことを心得ているものであります。

 息子アブサロムはそういう意味で、大変賢いやり方をした。相手の不満を聞いて、最後に、ダビデへの批判を刷り込む。そういうやり方でアブサロムはダビデに対する民の不信感を広め、自分に対する信頼と尊敬をイスラエルの民に刷り込んでいくわけであります。

 使徒パウロは、「サタンも光の天使に擬装する」といいました。それは当時の教会に入りこんだにせ教師のことを批判したわけですけれども、偽教師というものは、実に魅力的だったりするわけであります。人の心を盗む技術があるわけです。そして、巧みにキリストに対する信仰から引き離して、自分に引きつけていく。それはまさにサタンが天使に偽装したようなものだとパウロは言いました。

 最初、イエスさまに向かって、ホサナホサナと歓迎していた群衆が、やがて、イエスを十字架につけよと叫ぶ。その群衆心理を操ったのは、当時の宗教指導者達でした。人間の心というものは、真理や真実に従うよりも、感情に流されるものであります。これはクリスチャンも同様。いざとなれば、正論をいくら語っても、感情に流されてしまう。自分の感情を理解してくれたと思う人間になびいていってしまう。周りの雰囲気に流されて言ってしまう。そういうことが起こることもある。人に流されないで、真理にのみしたがう本物のクリスチャンでありたいものであります。

 アブサロムは、そんな人の心を巧みに操って、人々を自分のシンパにすることをつづけて4年目のある日、自分こそが王であると宣言し、ダビデは追い出される。ダビデは、そのときになって、イスラエルのほとんどの民は息子アブサロムのゆえに、自分の敵となっていることに驚愕いたします。

2節〜3節
3:2 主よ、わたしを苦しめる者は/どこまで増えるのでしょうか。多くの者がわたしに立ち向かい
3:3 多くの者がわたしに言います/「彼に神の救いなどあるものか」と。〔セラ

 エルサレムの民の信頼を失い、王の威厳をうしない、エルサレムを逃れたダビデの苦しみが、伝わってまいります。

 しかし、ダビデが、サウル王であるとか、他のエルサレムの王様と決定的に違うのは、彼は常に自分の置かれた危機の中で、そこから主を見上げる、ということが出来たということにあります。ダビデは何度も絶望的な状況に陥りますが、しかし、そこでじたばたしない。自分の力でなんとか状況を取り繕うとしない。この状況は主の御手の中で起こっているのだと、受け止めて、彼は祈った。多くのイスラエルの王は、まず、人間的な解決を模索したのに比べて、ダビデが決定的に違うのは、彼は、そこで祈った。その状況の中で、まず主なる神を見上げたというところにあるのであります。

3:4 主よ、それでも/あなたはわたしの盾、わたしの栄え/わたしの頭を高くあげてくださる方。
3:5 主に向かって声をあげれば/聖なる山から答えてくださいます。〔セラ

 ダビデは、主はわたしの頭を高く上げて下さるのだと語ります。ダビデは、その生涯において、幾多の苦しみの他に、彼自身の失敗による悩みもあり、そのたびに彼の頭(こうべ)は何度も深くうなだれたのでありました。しかし、彼はうなだれた頭を、自分の力では持ち上げられない頭を、主が持ち上げてくださる。どうしようもなく沈む心を、主は引き上げてくださるお方であると、そう信じ祈る人であった。

6節7節

3:6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
3:7 いかに多くの民に包囲されても/決して恐れません。

 ダビデはこの状況のなかで、眠ることが出来たというのであります。
この平安。これこそが、私たちが切に求めているものでしょう。
ある牧師が、飛行機に乗っていたら、なにかエンジントラブルが起こって、大きく飛行機が揺れたそうであります。乗務員も顔色を変えている。その牧師の隣に座っていた女性は、恐れに顔面を引きつらせていたそうですが、その女性に、牧師は、大丈夫ですよと、安心しきったように声をかけたそうであります。実際、その飛行機は無事に空港に着陸したのですけれども、着陸してからその女性が、この牧師に、あなたはなぜ、あの時、この飛行機が大丈夫だとわかっていたのかと聞いたわけです。それに対して、この牧師は、いや、あれは、飛行機が落ちても大丈夫、おちなくても大丈夫という意味ですよと、そう答えたと言うことであります。

 神に委ねるということは、そういうことでありましょう。なにがなんでも自分の思い通りにならねばということを越えて、神は最善を成したもうと委ねる。そして、そこにこそある平安に守られるなら、揺れている飛行機の機内でもゆっくりと眠ることさえ出来る。
 ダビデが6節で語っているように、
3:6 身を横たえて眠り/わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。
と、その平安を知るわけであります。

そしてその信頼と平安があるからこそ、最後にダビデは主に叫ぶわけであります。

3:8 主よ、立ち上がってください。わたしの神よ、お救いください。すべての敵の顎を打ち/神に逆らう者の歯を砕いてください。
3:9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ

ダビデ最初から助けてくれーと叫んだのではなく、まず主に対する信頼を告白しました。その上で、「主よ、立ち上がって下さい。わたしの神よ、お救いください。」と願います。

 主にゆだねて平安を頂いたら、それでいいではないか。主は最善をなしてくださるのだから、じたばたと祈り願うことはないのではないかという、そういう屁理屈を吹き飛ばすようなダビデの叫びがここに記されています。
 ダビデは主を信頼しゆだねているからこそ、彼はここで叫ぶ。ゆっくりと眠ることの出来る平安を知っているから、だからそれでいいのではなくて、ただ、神様の御心のままに、と悟った気になるのではなくて、神を信頼するからこそ、ダビデは助けて下さいと叫ぶわけであります。イエス様のたとえ話に出てくるやもめが裁判官に執拗に願い求めたように、祈りもしないで超然としているのが信頼ではなくて、全く逆に、信頼しているからこそ、執拗に祈り求めていく、それがダビデの信仰であり、また、わたしたちの信仰でありたいのであります。


八木重吉(やぎじゅうきち)が、こんな詩を書いていますね。

さて
赤んぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか

ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん

うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな

 神様を呼ぶ、しつこく神様に祈る。それは、神を信頼していないのではなく、信頼の裏返しです。どうせ御心にしかならない、ではなく、わたしたちが祈らなければ、その御心が、わたしたちの上にならないかも知れない。信頼て祈り続けなければ、神が与えようとしている救いも祝福も逃してしまうかも知れない。そのことに気がついたなら、もっと祈るものでありたいのであります。

3:9 救いは主のもとにあります。あなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ


救いは主のもとにあります。わたしたちの人間的な業とか、政治的な力では決してありません。主が働かれる以外に、本当の救いはありません。
教会の姉妹のご主人が、3月に脳梗塞で倒れられて、一時は助からないでしょうと、覚悟するようにといわれて、必死に祈りました。そして、今、その覚悟するようにといった医者も驚くほどの回復を見せておられます。主が鮮やかに信じるものの祈りを聞いて下さっていることを心から感謝いたしました。またある兄弟が3月に事故で倒れたときも、みんなで一生懸命祈りました。彼が助かったのも、これは運が単に良かったのではありません。主が祈りに答えてくださったと、わたしたちは信じます。

確かにある人は病に倒れて、いくら祈っても助からなかったかもしれません。だから、祈っても祈らなくても変わらない。神の御心がなるのだから、というのは、それは、神を信頼しているのではない。不信仰であります。そうではなく、神に委ねるがゆえに、わたしたちは、祈る。必死に願うのであります。

 ダビデは主を信頼していたゆえに、苦難の時に、必死に祈った。それは、また、わたしたちもそうであるべきであります。わたしたち神の民のうえに、もっともっと神の祝福がもたらされるようにと、豊かな祈りがもたらされるようにに、切に切に、願うのであります。

お祈りいたします。