「なぜ泣いているのか」

shuichifujii2006-04-16


聖書箇所:ヨハネ20章1節〜18節
 イースターおめでとうございます。
 今年のイースターの礼拝では、5名の方々のバプテスマ式、そして、この後2名の方の転入会の恵みを頂くことが出来ました。2月の渡辺兄弟を含めると、今年に入って実に8名もの兄弟姉妹を主は私たちの教会に与えてくださいました。

 人がそれまでの自分中心の生き方を変えて、キリストに従うという人生を歩み出す。そういう人生の大転換が起こる。それも何人もの人々が、そういう人生の大転換をしていくということは、これは、本当に、不思議なことであります。

 イースターのこの日に、このような恵みをいただけることを、今年の最初にだれが想像し得たでしょう。年の初めには、あれこれ計画を立てるものですけれども、今年は、何人のバプテスマというような、計画は立てられない。ある人の人生がキリストを信じて大転換していく、そういう不思議な神の業を、今年は何人などと、人間が計画したり、予想することなどできるわけもないわけであります。

 教会の歩み、また、わたしたち一人一人の人生も、すべて予想通り、思った通りになど運びません。わたしたちの計算通りになどならないのが人生ですね。なぜなら、神様のお働きを、わたしたちは計算に入れることができないからですね。自分の考えや思いこみ通りにならないのが人生です。

 ある禅の、お坊さんのところに、一人の教授がやってきて、禅について質問いたしました。そのお坊さんはお茶をもてなして、教授の茶碗にお茶を注ぐ。ところが、お茶が茶碗からあふれでても、お坊さんが注ぎ続けているのをじっと見ていた教授は、もうがまんできなくなって、「もう溢れています。それ以上は入りません」といった、その瞬間。お坊さんが「これと同じだ」と言った。何が同じなのか?
「あなたの頭は、自分の考えや思いこみでいっぱいだ。あなたの頭を空っぽにしなければ、どうしてあなたに禅をおしえることができようか」
そういったという話しがあります。

 自分の考えや思いこみで一杯では、もうなにも入らない。それは、イエスさまが死から甦られたという、この復活のメッセージも、ある意味そうでしょう。すでに、自分の考えや、思いこみで頭がいっぱいなら、復活のメッセージは入りません。自分の頭を空っぽにして、自分の思いこみや、こだわり、考えかたを、いったん脇において、神のなさった出来事に委ねる。信頼知る。それが信仰でありますけれども、その信仰によってのみ、復活はわかるのであります。死は全ての終わりであるという、その思いこみをすてて、この復活を信じるとき、わたしたちは、今を生きる力と希望を頂くことが出来るのであります。

 さて、先ほどお読みした聖書の箇所は、マグダラのマリアという女性に、甦られたイエスさまが現れた出来事が記されておりました。

 マグダラのマリアとは、かつては罪の女といわれ、悪霊にさえ憑かれていた女性でありましたが、イエスさまに癒やされ、罪を赦されて、彼女はイエスさまに仕える人となった。しかし、その愛するイエスさまが、十字架につけられてしまう。彼女は、その十字架を遠くから見守っていたと聖書にあります。そして、イエス様が墓に葬られるときも、彼女は最後まで見守っておりました。そして、安息日があけた朝一番に、マリアは、イエスさまの遺体に香油を塗るためにやってきたのでありました。十字架のうえで惨めに殺されたイエスさまの、そのお体を、せめてきれいにしてさしあげたいと願った。それは、マリアの心からの愛の行動でありました。

 ある人が、マザーテレサにこんな質問をしました。あなたの所では、医薬品も人手も不足がちだというのに、なぜその貴重なものを、生き返る見込みのある人々にではなく、与えたところで、死ぬに決まっている瀕死の人々に与えるのですか」と、明らかに、「無駄ではないか」という思いから出てきた質問に、マザーテレサはこう答えた。
 「わたしたちの家に連れてこられる人々は、路上で死にかけているホームレス
の人々です。彼らは、わたしたちの家で、生まれてから一度も与えられたことのない薬を飲ませてもらい、受けたことのない優しく、温かい手当を受けた後、数時間後、人によっては、数日後に死んでゆきます。そのときに彼らは例外なく、「ありがとう」といって死ぬのですよ。

 そう答えた。人々から邪魔者扱いされ、親を恨み、世間を恨み、神さえも呪って死んでもいいような人々が、いまわの際に「ありがとう」と、感謝して死んでいく。そのために使われる薬も人でも、これ以上尊い使われ方はないのではないかと、マザーはそういわれたのでありましょう。

 愛するイエスさまが、犯罪人同様に、むち打たれ、傷だらけで十字架に付けられ、人としての尊厳などみじんも認めてもらえずに、苦しみのあげく死んだ。そのお姿を見続けたマリアが、せめて、せめて、愛するお方の、そのお体だけでも、自分のこの手できれいにして差し上げたいと、香油を塗りにいったのも、しごく当然のことでありました。

 しかし、マリアがそうしたくても、墓にはイエスさまの遺体がなかったのでありました。マリアはどれほど驚き、そして落胆したことでしょうか。彼女は弟子たちのところに走り戻って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」と伝えます。彼女の頭の中には、復活などということはありません。誰かが遺体を取り去ったのだと、その思いこみで、いっぱいなのであります。墓に駆けつけたペテロともう一人の弟子も、殻の墓を見て、イエスさまが復活したとは、まだ理解出来なかったとあります。ですから、彼らは家に帰ってしまうのであります。自分の納得出来る世界に、安心出来る世界に帰ってしまう。 この時は、弟子もマリアも、死んだらすべてが終わってしまうという、その思いこみに縛られていたのであります。

 マリアは再び墓の前にやってきます。そして彼女は泣くのです。彼女は泣くことしかできないのであります。
 イエスさまが捕らえられたときも、彼女はなにも出来ませんでした。イエスさまが十字架の上で、苦しんでおられるときも、彼女は、どうしてあげることも出来ませんでした。息を引き取るときも、なにもしてあげられませんでした。墓に葬られるときも、彼女にはなにもすることがゆるされませんでした。せめて、三日目の朝、墓にやってきて、イエスさまのお体に香油をぬることしか、それしかできなかったそのことさえも、遺体がなくなってしまったいま、出来なくなってしまった。もはや、マリアに残されているのは、ただ、泣くことだけなのであります。

 わたしたちも、このマリアの気持ちがわかるのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちも、いつしか、泣くしかできない時がくるからであります。愛する人の苦しみを前にして、愛する人の死を前にして、何もすることのできない自分に直面する。。「死」という大きな壁の前では、ただ、泣くことしかできない、人間の無力さを知るときが、わたしたちにもいつか必ずくるからであります。。

 しかしこの時のマリアは、イエスさまの遺体にさえ、何もすることができなかった。彼女に赦されていたのは、ただ、泣くことだけだったのであります。

 そのマリアに、天使が現れたとあります。そして、「なぜ泣いているのか」と問うたのです。しかし、マリアは涙で目が曇っていたのか、驚きもしません。不思議な場面です。しかし、大切なのは、ここで天使が、「なぜ泣いているのか」と問うたことにあります。つまり、神の目には、マリアは、本来泣かなくても良いのだ。なぜ、泣くのかと、そう問いかけられているのであります。

 マリアはその問いに答えて言います。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしにはわかりません。」

 これがわたしが泣いている理由だと、マリアは訴える。しかし、実は、これは、彼女の思いこみでしかなかったのであります。彼女はその自分の思いこみに縛られているだけなのであります。本当は、泣く必要などない、自分の思いこみに縛られ、彼女はここで泣いているのであります。
 そして、後ろを振り向けば、そこにイエスさまがたっておられた。そうあります。しかし、マリアは、自分の思いこみで頭がいっぱいで、それがイエスさまだと分からない。

 イエスさまもマリアに「なぜ泣いているのか」といわれました。これはつまり、「泣く必要などないのだ、マリア」という、主の語りかけでしょう。マリアは、もう泣かなくてもいいのです。なぜなら、今、そこにイエスさまがそこにおられるからです。マリアは気が付いていないだけなのであります。自分の思いこみにすっかり囚われて、死んだ人が甦るわけがないという、その考えに縛られて、神の業が見えなくなっているだけなのであります。

 マリアは目の前のイエスさまを、園丁だとおもいこみ、マリアは言いました。「あなたがあの方を運び去ったのなら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」

そう言って、必死にイエスさまの遺体を探し続けるマリア。

 もしも、墓の中に、イエスさまの遺体があったなら、彼女はまだ、こころ落ち着いていたのかもしれません。

 わたしたちもわかる気がいたします。愛する人の形見を持っておきたい。愛する人との絆を、思い出を、確認出来るものを、持っていたい。そうやって、どうにか愛するものを失った心の穴を、むなしさを埋めたいと願う。その気持ちはわたしたちもわかります。

 イエスさまの体を引き取りたい。わたしのそばに置いておきたい。そう願ったマリア。それは愛するものを失い、ぽっかりと空いてしまった心の穴を、むなしさを、何とか埋めたいというもがき。なにかで、その穴を埋めなければ、気さえ狂ってしまいそうなほど、空しさ、虚無というものは苦しい。その苦しみが、今、マリアを取り乱させているのであります。

 20年前、わたしの両親が離婚したあとしばらく、わたしは人生の空しさ、虚無に取り付かれてしまった時期があります。家庭が崩壊する。愛の関係が壊されていく、その現実に直面し、それでもなお、このような砂をかむ味気ない人生を、むなしい人生を、なお生きねばならない苦しみを知った時期がありました。マリアのように、愛の形見を探しまわっては、むなしい喜びを追い求めて生きた時期がありました。

 そんな空しさのなかで、ある時、クリスチャン作家の三浦綾子の本を手にして、むさぼるように読みました。空しさに取り付かれていなければ、決して手にしなかったであろうその本を手にして、そして、聖書もむさぼるように読むようになり、やがて、主の呼びかけを聞いて、クリスチャンになってから、心の中の大きな穴が、しだいに埋まっていったのでありました。いまや、もう、イエスさまを知らなかった、あのむなしい人生になど、戻ることは決して出来ません。

 マリアは、まだ「わたしが、あの方を引き取ります」と泣いています。愛する人の死によって、心に大きく空いてしまった穴を埋めようと、彼女は遺体を探すのです。しかし、そのように叫び続ける彼女にむかって、イエスさまはひとこと、「マリア」と、その名を呼びました。彼女は、その声に振り向き、「ラボニ」「先生」と答えた。マリアは主に呼ばれて、そこにおられるのが主であることを悟ったのであります。それまで、どんなに涙を流し、取り乱し、心の穴を埋めたくて、イエスさまのお体を捜しまわっても、みたされなかった心が、イエスさまのひと言でみたされた。イエスさまはすぐそばにおられた、いや、すでにマリアが失望し、嘆き悲しみ、泣いていたその初めの時から、すでに、そばにいてくださった。そのことに、マリアは気が付いていくのです。

  マリアはイエスさまにすがりつこうとします。しかしイエスさまはいいます。「すがりつくのはよしなさい。」
 なぜでしょうか。それは、彼女が、いつまでも、目に見える姿のイエスさまにしがみついていてはいけない、ということであります。イエスさまはいいます。「まだ父のもとへのぼっていないのだから」。

 イエスさまはやがて父なる神のもとに上られる。そして、もはや、目で見たり、手で触ったりすることは出来ないお方になる。だから、マリアにいうのです。見える姿にすがりつくのはよしなさいと。

 マリアは悟ったにちがいありません。かつては、イエスさまの遺体をさがし、目に見える体にすがりつくことで、心の穴を、空しさを埋めようとしていたマリア。

 しかし、今や、マリアは泣く必要がないのであります。それは、イエスさまの遺体が手に入ったからではありません。そうではなく、死に打ち勝ち、目にはみえなくとも、主は、いつまでも共にいて下さることを知ったからであります。

 私たちも、目に見えるお方としてキリストに会うことはないでしょう。そして、それでよいのであります。目に見える希望は本当の希望ではありません。今は、目には見えなくとも、キリストの呼びかけに応えるならば、死に打ち勝たれた主が、すでに共にいて下さることがわかるからであります。

 「マリア」と名前を呼んでくださった主は、また、私たち一人一人の名も呼んでくださっています。
 わたしたちが、自分の思いこみに縛られて、失望してしまうとき、もうだめだと落胆してしまうときこそ、主は、わたしたちの名を呼んでくださる。そして、失望から希望へと、悲しみから喜びへと、振り向かせて下さる。それが、わたしたちの復活の主なのであります。