「人を恐れ、人に流される者」

4月5日祈祷会
マタイ27章15節〜26節

 祈祷会では受難節を覚えて、イエスさまのご受難の足跡をたどって御言葉に聞いていますけれども、特に、イエスさまを取り巻く人にスポットを当てまして、先々週はユダの裏切りについて、先週はペテロの裏切りについて学んだとおもいますが、そして、今日は群衆達がイエスさまを見捨てていくところから、学んでいきたいと思います。


 今日の箇所で、総督ピラトは、バラバ・イエスという評判の囚人と、メシアと呼ばれるイエスと、どちらを釈放してほしいのかと群衆に聞いたとあります。

 過越の祭りの時には、支配者ローマは、被支配者のユダヤに、ご祝儀を上げていたわけです。それが、ユダヤの囚人を一人釈放する、つまり、ローマに捕らえられている政治犯を一人逃がしてやるということでありました。

 ピラトは、妻が夢のなかで、あのイエスに関わらないようにと告げられたこともあって、イエスさまを釈放しようと思っていたのでしょう。そして、彼はそれが出来る立場にいました。ただ、正しい裁判さえすれば、証拠不十分で、イエスさまを釈放できた。そして、彼はそうすべきでした。しかし、ピラトは、人を畏れるのであります。ユダヤ人の機嫌を損ねたくない。自分の立場を守りたい。そのことのゆえに、ピラトは正しい裁判を放棄して、自分がしなければならない判断を、民衆に丸投げしてしまいます。

 ピラトは、当時評判の囚人であった、バラバ・イエスという男と、イエスさまを並べて、ユダヤ人たちに、二人のイエスのどちらかを選ぶのかと判断を丸投げします。テロリストイエスか、それともメシアといわれているイエスか、そのどちらを釈放してもらいたいのか。その判断を群衆に丸投げするピラト。しかし、そこにはピラトの目算もあったのであります。

 なぜなら、18節にありますように、祭司長や長老たちがこのイエスという男を、自分に引き渡してきたのは、ねたみのためだとピラトは分かっていたからであります。このイエスという男が、ユダヤ民衆の心をつかみ、人気があるから、そのことを、指導者である祭司や長老たちがねたんで、それで、このイエスという男を亡きものにしようとしているのだろう。ならば、民衆に選ばせさえすれば、民衆は、バラバではなく、この人気があるイエスの方を釈放するように求めるはずだ。というのが、ピラトの目算でありました。民衆が正しい判断をするだろうという、そんな淡い期待に基づいて、ピラトは民衆に判断を丸投げする。

 そしてその結果どうなったかといえば、群衆は祭司長や長老たちに扇動されて、「バラバを釈放しろ」「イエスを十字架につけよ」と叫んだのであります。みごとにピラトの目算ははずれました。民衆は正しい判断をするはずだという目算ははずれ、民衆はこぞって悪を選び取った。神の御子を殺せと叫んだのであります。

 あのルワンダにおいて、3ヶ月の間にフツ族の人が、ツチ族の人を、約100万人も殺すという大量虐殺が起こったわけですが、その大きな要因としていわれているのが、フツ族の指導者たちが、民衆を扇動したということがあるわけであります。指導者らは、ラジオなどの手段をつかい、ツチ族がいかにひどいことをしてきたか、やつらわゴキブリのような人間だ、生かしてはおけないと、そのように、人々を扇動しつづけた。それが、あのような大量虐殺を生み出したと言われます。

 情報が操作され、偏った情報だけが一方的に流される。それは恐いことであります。戦争も、大切なのは、まさに情報であるわけです。数年前のイラク戦争の時も、アメリカの田舎にすむ多くの素朴な人々は、テレビから流れてくる偏った情報を鵜呑みにして、イラクは本当に大量破壊兵器をもっていて、今にアメリカに打ち込んでくると信じて、恐れから、あの戦争に賛成していったわけでした。

 そのように、偏った情報に耳を傾けつづけるということは、実に恐ろしい結果を生み出していきます。サタンが、エバに、神様を疑わせるような耳打ちをして、まんまと罪を犯させたように、今も、サタンは、わたしたちに、偏った情報を聞かせて、わたしたちに罪を犯させようとするかもしれません。ゴシップやうわさ話、陰口が危険なのは、まさに、サタンがそういう偏った情報をもちいて、わたしたちに罪を犯させるからなのであります。

 祭司長や長老たちは、民衆に向かって、あのイエスという男は、ユダヤの裏切り者だ。バラバこそが、ユダヤを救う英雄だ、と、そう扇動したのでありましょう。そのような一方的な情報によって群衆は扇動され、そして、ついに、「イエスを十字架につけよ」と激しく叫ぶまでになっていくのであります。人を罪に誘うサタンの惑わしの恐ろしさを思います。

 しかし、たとえ扇動されたとはいえ、群衆には罪があります。指導者に扇動されたとはいえ、ルワンダフツ族の人々が、ツチ族を殺した罪が帳消しにはならないように、イエスさまを十字架につけよと叫んだ群衆達の罪も、たとえ、サタンが誘惑した、扇動したからとしても、彼ら自身がおかした罪として、受け止めなければなりません。

 サタンというものは、そのように、実に巧みに情報や言葉を用いて、人に罪を犯させようとするのだ、ということを、心しておきたいのであります。

 裏を返せば、そうやって、人の言葉にすぐ影響を受け、他人の扇動にすぐ乗って、罪を犯してしまうあり方こそが、問われなければならないのであります。つまり、自分の心の中が、いったいなにによって一杯になっているのか。神の言葉なのか、それとも、自分の考え、人の言葉なのか。いったいなにによって心が一杯になっているのだろうか。

 もし、人の思い、自分の思いで一杯で、神の言葉がどこかにいっているとするなら、そこから、罪が引き起こされていくのでしょう。ならば、わたしたちは、常に誘惑に陥らないように、神の言葉に立ち戻る。神の言葉によって、いつも心を満たすものでありたいのであります。

 詩編1編は、その意味で、ぜひ、耳を傾けたい詩編であります。

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 御言葉を心に満たす。昼も夜も御言葉を思う。自分の思いで一杯にしてしまわないで、御言葉を思うならば、御言葉にたつならば、その人のすることは、すべて繁栄をもたらすのではないでしょうか。

 あのマルティンルターは、わたしは御言葉にたつことしかできないと、当時の世界を敵に回して、孤独な戦いをいたしました。

 そして、イエスさまもある意味、御言葉に立り、御言葉に生き抜かれたがゆえに、人々に迫害され、捨てられようとしているのであります。

 御言葉に立つということは、ある時は、孤独な道を歩むということであります。人間の思いや願いになびかず、そのような仲間を求めず、ただひたすら神の御心を尋ね求め、そこに生きる。ただ、神のみが全てを知っておられることにゆだねて、神にのみ従って歩んでいこうとねがう。それは、ある意味孤独な歩みかも知れません。しかし、まさに、それは、イエスさまの十字架への歩みだったのであります。

 総督ピラトは、人を恐れる人でした。人を恐れ、何が正しい判断かを知っていながら、群衆を満足させるために、判断を群衆に丸投げいたしました。

 そして群衆は、サタンに扇動されて、こぞって間違った判断を下したのでありました。自分たちは正しいと信じて、イエスを十字架につけよと叫んだのであります。

 多くの人々が下した判断が、必ずしも神の前に正しいとは限りません。あのヒトラーも民主的な選挙によって選ばれたように、民主主義というものは、道を踏み謝る危険をもっているのであります。

 教会は、民が主ではありません。民ではなく、神が主であります。皆さんが主ではなく、神ご自身が主なのであります。わたしたちの思いで心を満たす前に、いったい、御言葉はなんと言っているか、御言葉に立ち戻り、主の御心を尋ね求める祈りの民でありたいと願います。

 人を恐れ、イエスさまを群衆に引き渡したピラトも、また、扇動され、十字架につけよと叫んだ群衆たちも、人ごとではなく、彼らに、今の自分の姿を重ね合わせることができるのではないでしょうか。今日の御言葉の箇所は、イエスさまが人々に裁かれている場面ですが、実はそのことを通して、逆に私たち自身の姿が問われ、人を恐れ人に流されるわたしたち自身の罪が、浮き彫りにされているのであります。しかし、そのわたしたちの罪を、神を畏れようとしない罪の裁きを、主イエスは、十字架の上で身にうけて、わたしたちをなお、見捨てることなく、神の民をしてこうして集めて下さっている。教会に集わせて下さっているその恵みを思いながら、主に喜ばれる歩みをしていきたいと、そう切に願っているものであります。