「十字架の赦しにすがるしかない」

3月22日の祈祷会

マタイ26章47節〜56節

 祈祷会では先週からイエスさまの受難を覚えて、御言葉をたどっています。今日は、ユダの裏切りによって、イエスさまが捕縛されていく出来事から、御言葉を受けたいと願っています。

 登場人物は、まず、イエス様を裏切る弟子のユダです。そして、ユダヤ教の指導者たちが遣わした大勢の群集たち。群衆といってもただの群衆ではなくて、神殿を警備する人々も混じっていたようですけれども、それから、イエス様の残りの11人の弟子たち、そしてイエス様。

 場所は、ゲッセマネの園であります。沢山のオリーブの木が繁り、その枝が重なりあって、おそらく月明かりもあまり差し込まないような暗闇の中に、たいまつの光をかざしながら、一人の男を捕まえに、群衆達が険しい形相でやってきた。そして、その軍団の先頭には、ユダがいたのであります。

・47節をみると、イエス様を取り押さえにきた群衆の手には、剣と棒が握られていたと書いてあります。たった12人相手に、剣と棒を握ってやってくる。あまりに大げさのようでありますけれども、おそらく、ユダが、そのように指示したのではないか。なぜなら、ユダは、弟子の中にペテロや熱心党のシモンなど、荒々しくて、血の気の多い人間がいることを知っている。その弟子達が抵抗するだろうとみこして、剣と棒を用意させたと、そう言われます。ユダという人は、頭がいい人だった。弟子達の中で、お金の管理を任さるような、しっかり者、緻密な計算が出来る人だった。ゆえに、裏切るに際しても、用意周到に剣と棒を準備させたのだろうと言われます。

それは、48節をみても感じるところであります。

・14:44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。

とありますように、ユダという人は、合図までしっかり準備していた。万全の準備をしていたわけであります。

・先ほどもいいましたように、ゲッセマネの園はオリーブの木が生い茂って、月明かりも入らないような暗闇であります。光は、自分が手にしているたいまつだけ。それでは、遠くの人の顔など認識できません。だれがイエスなのか、たいまつの明かりではわからないだろう。だから、前もってユダは合図を決めていたのであります。なんと計算高いのだろうと思います。そうまでして計算高く、準備していたこのユダの姿からは、かつての恩師を、今まさに裏切ろうとする人間の、ためらいであるとか、後ろめたさというものを、残念ながら感じ取ることはできません。これは一事の気の迷いであったのだと、フォローしてあげたいけれども、残念ながら難しい。これは、一事の気の迷いなのではなく、冷静に準備された計画的犯行なのであります。しかも彼は、イエス様をとらえる合図に、接吻を選びました。

・当時の弟子たちが、恩師に対して最高の尊敬と愛を表す表現である接吻。よりにもよってその接吻を、ユダは、あえて裏切りの合図として選ぶ。しかも、49節で、ユダが、イエスに近寄り、「先生こんばんは」といって接吻したときの、この接吻という言葉は、原語のギリシャ語によれば、「大変長く激しいキスとした」という、そういうことば。つまり、しっかりと抱きしめて、長い間キスをすることにより、群衆達にこれがイエスだ、逃がすなと、そういう意図をもった、まさに裏切りのキスであったのであります。

 かつては、彼もイエス様を愛し、仕事も家庭も全てを捨てて、従ってきたはずであります。そのユダが、いったいどうしてこうなってしまったのかと、心痛締め付けられる思いがいたします。

 なぜユダはこうなってしまったのか?それについて、いろいろなことが言われてきました。金目当てであったのだという説。また、イエスさまが革命を引き起こしてくれると期待していたのに、なかなか革命を起こしてくれないので、金で売ったとか、いや、ここで敵に捕まれば、きっと奇跡を起こして民衆のために立ち上がってくれると期待したのだとか、さまざまな憶測がなされます。

 ただ、わたしは、ここにおいてユダの悪を追求するとか、その原因探しをするということは、あまり意味がないと思っているのであります。なぜなら、そうやって、原因を突き止めてみて、それがなんだというのでありましょうか?。原因を突き止めてみて、だから、私たちは、ユダのようにならないように気をつけましょうね、という、教訓話にしてしまってはならないと、そう思うのです。

・現代でも、残酷な事件とか、少年犯罪が起こるたびに、いったいなにが原因だったのかと、テレビで盛んに専門家がコメントしていたり、そして精神鑑定をやってもっともらしい病名がつくと、ああ、あの子はこんな心の病気だったから、こういうことをしたんだと、変な意味で安心してしまう。あの子は病気だから、だから、自分の子どもとは違うのだ。彼はちょっとおかしい人だったから、ああいうことをしたのだ、自分の子とは違うのだと、そうやって安心しようとしてしまうのであります。そのようにして、罪を犯した人を、特別に悪い存在として、切り捨てて、自分は違うのだと安心しようとしてしまう。原因探しとはそういう側面があるのであります。

 しかし、本当はそうやって勝手に相手にレッテルをはって、自分は違うと安心していてはいけないのであります。聖書は、どんな人であろうとも、原因が何であろうとも、人間というものは、悪に傾いていく、悪を行ってしまう、そういう心がある。心根が曲がっている。なぜなら、神から離れているからであると、人間の罪を、原罪を語るからであります。人は、どこまでも、真実な生き方を、誠実な生き方を貫くことができない、そういう心がねじ曲がっている、その聖書が教えるところの、罪の問題、原罪の問題にこそ、光が当てられなければ、ならないのであります。

・ですから、今日の聖書の箇所におきましても、ユダを悪者にするだけで、自分は違うのだと、安心していてはならない。悪人を裁いて気持ちよくなっていてはならない。自分のなかにも潜んでいる、このユダの心に向き合わなければならないと、そう思います。

・神の御言葉よりも、自分の信念や、計算高さにいきたユダの姿。自分がイエスに従うのではなく、自分の願い通りにイエスを動かそうとする身勝手さ。そのような、神に聞こうとしないまま、自分の思いだけで生きるという、わたしたちの中にも潜んでいる、罪にこそ、光が当たらなければならないと、思うのです。

・実際、今日の箇所におきましては、聖書は、ユダだけが裏切り者であって、他の弟子達はイエス様を守った正義の味方だとは、書しておりません。そうではなく、弟子達全員、一人残らず、イエス様を見捨てて逃げた。誰一人、イエスさまに対する、愛も真実も貫けないまま、みんなイエスさまを裏切り、逃げ去ったのだという事実を、聖書は包み隠さず告げているわけであります。

・イエスさまが、心血注いで愛し抜き、訓練し、育んできた弟子たちが、事ここにいたって、一番イエス様が必要となさるときに、ひとり残らず、逃げ去ってしまう。

・イエス様からみれば、このユダの行為も、ペテロを始め、他の弟子達の逃亡も、同じように、主の愛を裏切る、悲しい行動であったに違いありません。

・弟子達はなぜ、ここに来て、逃げだしてしまったのかと思います。なぜなら、彼らは逃げ出す前に、弟子の一人が剣を抜いて、手下にうちかかって、相手の片方の耳を切り落としたと、そう記されているからです。

・つまり、最初弟子達は、勇敢にも群衆達と戦うつもりだったのであります。相手が大勢であろうとも、関係ない。彼らは戦うつもりだった。なぜか。それは、イエスさまが一緒にいてくださるのだから、大丈夫だ。自分たちは勝てるのだと思っていたからでありましょう。

・数々の奇跡を行ったイエスさまが、一緒にいて下さるのだから、相手がどんなに多かろうが、大丈夫だと、弟子達はそう信じていたに違いありません。だからこそ、多勢に無勢で、あまりに無謀であるにも関わらず、彼らは最初から逃げだそうとはせず、相手に斬りかかることさえしたのであります。

・イエスさまはきっと助けてくれる。きっと、一緒に戦って下さる。敵をやっつけ、イスラエルの支配者となり、にっくきローマを倒してくれると、弟子達は本当に思いこんでいた。しかし、それが自分勝手な思いこみであったことを、決定的に知らされるひと言を、イエスさま語られたわけであります。

・52節「剣をさやに納めない。剣を取る者はみな、剣で滅びる」

・イエスさまは、わたしは、剣などで戦いはしない。力を持って相手を支配などなさらない。天使の助けも求めないと、そういわれたのでありました。そんなことはしない。そんなことをしたら、聖書が昔から約束していた人間の救いが成就しない。だから、剣をさやに納めるのだと、そうイエスさまは言われたのでありました。

・弟子達は、イエスさまが一緒に戦って下さると期待していたからこそ、相手に斬りかかったのでありました。ところが、イエスさまは、戦わないというのであります。天使も奇跡もなにも呼び起こさないといわれたのであります。ここにきて、弟子達は、目が覚めた。ああ、このままでは自分たちは犬死にする、と、一挙に恐れに取憑かれて、彼らは一目散に逃げ出した。イエスさまをみ捨てて、自分の命ほしさに逃げ出した。というのが、実体でありましょう。

・イエスさまは、自分たちが期待した存在ではなかった。自分の願いを叶えてくれるお方ではなかった。だからユダは、イエスさまを敵に売りわたし、また、ペテロ達は、イエスさまを見捨てて逃げたのでありました。そして、そこにこそ人間の罪があるのであります。

・どこまでも自分を中心に生きようとする姿。自分の欲望、自分の願望、自分の期待。自分、自分、自分。その自分かわいさゆえに、ユダも、他の弟子達も、イエスさまを捨てた。これは人間の弱さの話ではありません。主をすてる。神を捨てるという、人間の罪の姿が、見事にあらわになった出来事なのであります。

・主を捨てる。神を捨てる。その恐ろしいまでの罪の姿をさらした弟子達。しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、このような弟子達の罪の姿を、なぜ、私たちは知ることが出来るのだろうかということであります。つまり、その罪の姿が、この所に記されている、ということの意味なのであります。それは、単に、私たちが、弟子の失敗を笑い、ペテロも、ユダも情けない罪人だと、私たちが、あざ笑うために、ここに記されているのでありましょうか?

・いや、そもそも、よく考えてみれば、こんな弟子たちの情けない姿を、わたしたちが知ることができるのは、この出来事を、この情けない自分たちの姿を、彼らは後に、隠すことなく告白し、この福音書に書き記したからなのだ、ということに気がつくことは大切なことであります。

・もし、弟子達が、イエス様をみ捨てて逃げ去ったその罪を隠そうとしたならば、隠すことも出来たでしょう。自分たちはここで勇敢に戦ったのだ、でも、力足りず、イエスさまは連れ去られてしまったのだと、嘘を書き残したとしても、私たちにはわからない。そうやって、私たちは永遠に、この弟子達の情けない姿を知らずにいたかもしれない。

・しかし、今、この弟子の罪を私たちが知っているということは、後に彼ら自身が、罪を告白し、福音書に書き記したということであります。しかも、彼ら弟子達は、後の時代には、使徒と呼ばれて、全員、教会のリーダーになったわけであります。教会のリーダーとして、クリスチャンを指導していたわけです。教会の人々に向かって、キリストを信じ、聖書の御言葉に従って生きるようにと、教え、指導しなければならないリーダーであったわけであります。その弟子達が、過去のこの情けない姿を、こうして福音書の中でさらしていく。当時から、神を礼拝する礼拝の中で、福音書は読まれたわけですから、そんなところで、自分たちの罪の姿をさらしていくなどということをしたら、「なんだ、神を信じて生きよと教えておきながら、お前も、かつてはイエスさまを捨てたではないか。お前は、なにさまなのだと、そう批判されるに違いない。リーダー失格と烙印を押されるに違いありませんのに、弟子達は、あえて、福音書の中に、過去の過ちを、失敗を、隠さず書き記していった。これは驚くべきことであります。

・それはなぜでしょうか。? それは、ひとえに、彼ら弟子達が、この後、十字架に死んで、そして三日目に復活なさった、イエス様と再会したからでありました。そこにおいて、決定的に罪の赦しをいただいたゆえに、人がなんと思おうが、主は、すでに十字架によって、その罪を赦してくださったのだと生きることが出来た。復活なさった主は、ペテロに三度も「わたしを愛するか」と尋ねてくださり、そして、わたしの羊を飼いなさいと、もう一度立ち上がらせてくださった。伝道へとペテロ達を遣わしてくださった。その神の赦しと神の召しの確信があるからこそ、弟子達は、人がどう思おうが、過去の自分の失敗を、罪を恐れることなく、こうして真正直に書き記したに違いないのであります。

 それはただただ、自分が今あるのは、自分の知恵でも計算高さでも能力でもなく、ただただ、神のめぐみによって、立たされているのだ。いかされているのだという、その証しのために、弟子達は、こうして、福音書に、この罪の出来事を書き記したのでありましょう。

 しかしユダは残念ながら、この後自分で自分の命を終わらせていきました。ユダがもし、自分で自分を責めるのをやめ、自分に担いきれない罪の責任を自分で処理することをやめて、主の前に裸になって、その罪を弱さもさらけ出して、神の赦しと救いにすがったならば、もし、彼がそうしたならば、きっと神様は、ユダを憐れんでくださったにちがいないと、わたしは、そう信じるものであります。

・神の前に、罪の大きさなど関係ありません。罪が小さいから赦され、大きいから赦されないのではありません。そうではなく、ただただ、神の憐れみにすがる。その十字架の赦しにすがるところに、神の赦しがあるからです。それが福音なのであります。

・その福音を、神の大いなる赦しと愛を、私たちに与えてくださるために、イエスさまは、こうして、逮捕され、そして、十字架の上に死んでいかれるのであります。

・そして、ここにこそ、わたしたちの救いがあるのであります。