受難日の朝の黙想

わたしたちが、ありのままの自分や、隣人と向き合うことから逃げないで

「汚れているなー」「なさけないなー」となんども失望させられようと

それでも恐れないで、にげないで自分や隣人のありのままを直視できるとするなら、

それは、

エスさまの十字架のゆえ、なんですよ。

普段は、気がつかないまま、見過ごしたり、蓋をしていても、

直視したなら見えてくる、

自分の中にある罪の汚れ

あの人の中にある、罪の汚れ

そのすべてを、神さまは、主イエスに負わせ十字架につけられたのだから

ただひとえに、

あなたを、あのひとを

ゆるすために

エスさまの受難を覚える受難節とは、

つまりその神の大いなる赦し、計り知れない愛に、

ちゃんと向き合い、心を開き、受け入れなおす時期

そのままの自分のなかに、

そのままのあなたのなかに

なにがあろうと、神さまはみんな知ったうえで、赦している

そんな、人間には到底できない、信じがたい

神の愛だけに、まっすぐ向き合いたい。

そんなことを想う、受難日の朝



ルカによる福音書23章33節〜

されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」