「赦すお方はロバにのられた」

3月15日祈祷会のお話
マタイ21章1節〜10節

 祈祷会では先週まで、イスラエルの歴史について学んでまいりましたけれども、3月に入りまして、今、教会歴では受難節を迎えておりますから、祈祷会におきましても、イエスさまが、ほかでもない、このわたしの罪のために苦しまれたその、ご受難の足跡をたどりつつ、信仰を整えていきたいと、そう願っております。

 さて、今日のところは、イエスさまがエルサレムの町に迎え入れられたという、いわゆるエルサレム入場の出来事でした。この日は、日曜日でしたが、しかし、驚くべきごとに、その同じ週の金曜日には、歓迎されたはずのイエスさまが、同じ人々によって捨てられ、十字架についていくという、人間の本当に、手前勝手な、自己中心の罪の、その無責任さ、愚かさというもをの、かいま見せられる、そのような一週間の幕開け。それが、このエルサレム入城といえるのではないかと思います。

 すこし今日の箇所を順を追って見てみましょう。
1節
 
21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

とあります。

 ベトファゲとはエルサレムの隣の村です。オリーブ山という山のふもとの村になります。しかし、よく注意して頂きたいのは、なぜ、わざわざここで、「オリーブ山沿いの」、と、書いてあるのかということであります。
 静岡県御殿場市という市がありますが、わたしたちはわざわざ、富士山のふもとの御殿場市といういいかたはしない。つまり、すこし不自然なのであります。そこに実は意味がある。
 なぜなら、旧約聖書の預言のなかに、救い主メシアが、エルサレムの東にある、オリーブ山の上に現れるのだと、(ゼカリア14章)、そう記されているからであります。その旧約聖書の預言のとおりに、イエス・キリストは、今、まさに、オリーブ山のふもとに立たれたのだという、そういう信仰の深い意味がここに込められていると、そう読むべきでありましょう。また、あのイエスさまが祈られたゲッセマネの園も、このオリーブ山のふもとであった。まさにメシア預言の一つの成就の姿がここに記されているといえるでしょう。

 2節ー3節を見ますと、イエス様が、このオリーブ山のふもとの村で、二人の弟子を使いに出して、ろばを連れてくるように命じたとあります。これもただイエスさまが気まぐれに、ロバを見つけてこいと言われたわけがなく、これもまさに、旧約聖書に預言されていたメシア預言が成就していくために、どうしても必要なことであったわけであります。

 その箇所を開くことが出来る方は、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節、1489ページを開いて頂けたら感謝でございますけれども、
 
  娘シオンよ、大いに踊れ。
  娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
  見よ、あなたの王が来る。
  彼は神に従い、勝利を与えられた者
  高ぶることなく、ろばに乗って来る
  雌ろばの子であるろばに乗って。
 
 このゼカリアは、イエス様が生まれる約300年前の預言者ですけれども、イエス様はまさにこの預言に従うかたちで、ロバをさがし、エルサレムに入城する準備をしておられるわけであります。

 注目したいのは、3節でイエス様がこう言っていることです。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」

 『主がお入り用なのです』
 こうやって、イエス様がご自分のことを「主」といわれたのは、とても珍しいことですけれども、それ以上に、ここでイエスさまが言っておられることは、つまり、主のご計画のために、今、どうしても、ロバがいるのだということであるわけです。これは主がとこしえの昔から計画しておられたこと。

 映画に喩えますなら、たとえば、「人間の救い」という映画を作るにあたって、監督がまさに「主」になるわけであります。そして、旧約聖書とは、その映画の脚本になるわけです。その旧約聖書という脚本を元にして、人間の救いという、壮大なドラマが展開されていく。そして、そのために、どうしてもかかせない一シーンとして、監督である「主」が、いま「ろば」というキャストを必要としている。このロバがいなければ「人間の救い」という映画は完成しない。それほど、重要なこととして、ここで、ロバが求められているということなのであります。

 人間の救いとは、ただ、単に、イエスさまが十字架について、天から下ってきたというお話ではありません。そうではなく、その十字架に至るために、どうしても必要な、一つ一つのプロセスがあるわけであります。そこにおいて、どうしてもイエスさまはロバに乗らなければならなかった。つまり、ロバに乗るような存在とならなければならなかったということでありましょう。
 ろばという動物は、昔から、あまり人に好まれるような、格好の良い動物ではありません。「愚かなこと」という意味で、「ろばのようだ」と、当時も言ったわけであります。そういうロバが象徴している、かっこわるさ、愚かさ、弱さを、身に負う。イエスさまは、まさにそのような存在とされなければならなかった。かっこいい救い主ではなく、愚かもののように、人々に捨てられる、そういう存在とさせられていく。

 先ほどのゼカリヤ書9章9節にもありましたように、救い主は、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」お方。この「高ぶることなく」という言葉は、原語の意味からいうと、貧しいとか、権力がない、という意味であります。人に仕えられるのではなく、仕える存在となる。それはわたしたちの身代わりとして、十字架に打ち付けられるほど、謙遜に、へりくだる存在とされるために、主は、ロバに乗られたのでありました。足の速い馬ではなく、重荷をおってのろのろひたすら歩むロバのように、私たちの罪の重荷を背負われて、厳しくも苦しい、十字架への重い道のりを主は歩んでくださったのであります。


 さて、先に進んで、
7−8節には、次のようにあります。
 
21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。

 さて、このろばには、鞍がついておりませんでした。ですから、弟子たちはイエス様をお載せするために、自分の服を、ロバの上にかけたのでした。また、群衆達は、自分たちの服を道に敷いたとあります。また、自分の服を敷くことのできないもっとも貧しい人々は、その代わりに木の枝を切ってきて、敷きました。

 その地面に引かれた服の上を、イエス様をお乗せしたロバは踏みつけながら進んでいったでありましょう。なぜ、服を踏まれるままにしたのか。いや、実に、彼らは、イエスさまのロバに踏んでほしくて、行く道に自分の服を敷いた。自分の服が踏まれてもかまわない、いや、自分の服をどうか踏んでいってくださいというこの態度。これは、まさに、王様を迎え入れる態度であります。あなたは、わたしたちの王様です。私たちはあなたを歓迎します。敬います。私たちはあなたの僕ですと、そのような思いがあるからこそ、こうして自分の服を踏ませた。人々は、ここにおいて、イエス様に、心から期待し、めいのいっぱい歓迎をした。

9節
 
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
 
そう彼らは叫びました。「ホサナ」とは、「救ってください」という意味であります。それは彼らにとっては、自分の罪からではなく、ローマから救ってくださいという心からの願いでありました。実に悲しいかな、彼らの願いは、自分自身の罪からの救いではなく、ローマを倒し、自分たちは自由になりたい。それが救いなのだと、ホサナ、ホサナと叫ぶ群集たち。

 彼らにとって、イエスさまは、自分の思い込みや願いを、叶えてくれる王様。自分の願いを自分の願望をかなえてくださるメシアでしかありませんでした。罪びとはローマであって、自分ではない。倒されなければならないのは、ローマであって、自分自身の罪ではない。自分はこのままでいい、ローマを倒せと願う人々の、喜びの叫びのなか、イエス様はいったいどのようなお気持ちで、ロバに乗っておられたのであろうか?

 その数日後には、おまえは期待を裏切ったと、手のひらを返し、イエス様をののしり、十字架につけよと叫ぶ、そんな手前勝手な人々に囲まれながら、ロバに乗られたイエス様は、いったい、どのような思いを抱いていたのだろうかと、そうおもわずにはいられません。

 人を裁き、ついには、神の御子をさえ裁いて切って捨てていく人間の姿。
自分の期待に沿わないとわかれば、切り捨てられる人間の罪。イエス様が抱いておられる苦悩も苦しみも、なにも理解できない、感受性のなさ。それはまた、私たちもそうではないでしょうか。人を裁くということを、私たちは、実に簡単にするわけですけれども、裁かれた相手の、その心を、苦悩を、痛みを、わたしたちは、なかなか感じられない。いや、感じられないからこそ、そういう感受性が乏しいからこそ、人を簡単に裁くことができるのではないでしょうか。

 姦淫の現場でとらえられた女性が、イエス様のところに引っ張られてきた。周りの群集は、こんな女は石打ちの刑だといきまいている。さあ、イエスよ、あなたならどうするのかと、問われたとき、イエス様はこういいました。

あなた方の中で、罪のないものからこの女に石を投げなさい。

 そういわれて、人々は、年長者から順に、その場を立ち去ったのでありました。

 若いうちはわからない。理想を追い求め、自分は正しいと、人を容易に裁くことができる。しかし、人は、年を重ねていく中で、幾多の失敗をし、自分の弱さ、罪に涙していくのではないでしょうか。それゆえに、年長者から立ち去っていったのでありましょう。自分の罪の悲しみを知るからこそ、この姦淫を犯した女性の、その悲しみを、痛みを、思うことができる。その感受性を持つことができる。

 イエス様は、この姦淫を犯した女性の、しかし、その自分の罪ゆえの苦悩を、苦しみもだえる心のうちを、イエス様は、知っていてくださった。いや、まさに、その罪のために、主は十字架についてくださるゆえに、だから、彼女に、「私もあなたを罪にさだめない。いきなさい。これからは、もう罪を犯してはいけないよ」と、言ってくださったのでありましょう。


 もし、イエスさまが、力ある馬にのってエルサレムに入城したならば、つまり、清い神の正しい裁きをなさるために、イエス様がやってきたとしますなら、誰一人として、裁かれない人はおりません。神の前に誰一人立つことのできる人はおりません。しかし、驚くべきかな、イエスさまは、馬ではなく、ロバにのってくださったのでありました。そして、ご自分を十字架に付けよと手のひらを返した群衆達の、その罪をさえ、ご自分の身に背負って十字架に死ぬために、それほどまでに、私たちを愛し赦してくださろうと、主は、馬ではなく、ロバに乗ってくださったのでありました。

 このロバに乗ってくださったイエスさまの愛を、神の愛と憐れみを、他人ではなく、まさに、わたし自身こそが、必要としているのだと、そのように一瞬一瞬、くいあらためをもってと生きていきたい。

 裁くために馬にのったのではなく、赦すためにロバにのられたイエスさまの、その愛に押し出されて、愛と赦しに生きていけるよう、祈ってまいりたいのであります。

お祈り致しましょう。