今日の黙想

 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われた」ヨハネ20章19節

 イエスさまを見捨てて逃げ去った弟子たちは、自分たちも捕えられるのではないかと恐れ、鍵をかけて閉じこもっていた。

エスさまは十字架につけられてしまった。希望は断たれ、師を裏切った罪の自責や自分も同じ目にあうのではないかと言う恐れのなかに閉じこもっていた弟子たち。

しかし、イエスさまは復活し、弟子たちにただ一言「平和(平安)があるように」といわれた。そして弟子たちは喜んだ。

聖書のどこを読んでも、弟子たちがイエスさまに謝っている箇所はない。イエスさまに謝ったので、罪を赦してもらって「平安」が来たのではなく、神さまの側からの一方的に「平安」が宣言されている。罪は、神さまがいやしてくださるしかないのだ。

そして、弟子たちはそのまま聖霊を受けて、この福音を伝えていくようにと遣わされて行く。

自分のことばっかりになって恐れて閉じこもっていた弟子たち。そんな罪もけがれもそのままで、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」といわれて、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられたイエスさま。

やがて弟子たちは、閉じこもっていた家から飛び出していく。信じない者から信じるものへと変えられていく。

責められても人は変わらない。責めることで、自分や人を変えようとするのは傲慢。責めるほうが悪い。イエスさまでさえ、責めなかったのだ。

聖霊の働きに信頼する。聖霊が働いている自分自身を、そして他者を信頼して待つ。信仰のチャレンジ。

エスさまがまずそれをしてくださったゆえに。そこに「平安」がある。