処女降誕など

クリスマスの時期になると、教会では処女降誕について話題になります。

イギリスの神学者ジョンストットはこういいます。
「処女降誕であろうと、肉体の復活であろうと、福音書に記されたイエスの奇跡であろうと、自然法則をこえて奇跡が起こりうるという可能性を否定する人々は、科学革命の名のものにそれを否定する。彼らのことばに従えば、次のようなことになる。すなわち、科学は、この宇宙が固定したシステムであり、曲げることのできない因果関係がどこででも画一的に見られることを示した。したがって、奇跡というのは、最初から除外される。さらに言うなら、奇跡を今なお信じる人というのは、まったくの時代遅れで、「神話的」というよりほかに弁明できないような、そんな近代科学以前の世界観を保持しようとしているのである。
 ところで、こうした考えをする人々がしばしば見落としているのは、彼らにもまた前提条件があるということである。彼らの場合は、科学的世俗主義というのが、それになる。いったいどうやって、奇跡が起こりうるという可能性そのものを否定しながら、なおかつ神を信じる信仰を告白することができるのだろうか。いったい、どんな神を彼らは信じているのだろうか。創造主なる生ける神をご自分の宇宙の中に閉じ込めて、いわゆる自然法則を超えて働くことも、ご自分の被造物に命じることも認めないというわけだが、そうしたことが可能だと、彼らは本気で考えているのだろうか。」(The Authentic Jesus By John Stott P.13)

処女降誕を含め、聖書の奇跡が「信じられない」というのは、実は、ほかの前提を信じているので、聖書の奇跡を「信じたくない」「信じようとしない」だけに過ぎないということに気が付かなければなりません。