予想に反する新しい出来事が

shuichifujii2008-04-09

 酒田は山形県では一番早く桜が咲きます。今日、桜の開花宣言がなされたようですが、教会の近くの公園にある桜は、まだ写真の通り。見ごろは、週明けごろでしょう。それにしても、なぜ、桜の木は、隣同士申し合わせたように同時に咲くのでしょう。不思議です。


 不思議と言えば、昨日、市内のある教会のS先生が「同じのが2冊あるから」とわざわざ教会にこられて、本をくださいました。今までも何度か本をいただいていますが、教会関係の書籍は高いものばかりで、恐縮しています。

 そのS先生の息子さんのMさんは、今、神学生をしておられるのですが、今日やってこられて、「同じのが2冊あるから」と詩編の注解書をくださいました。私が、「昨日、お父様からも、『同じのが2冊あるから』と本をいただいたのですよ」とMさんに申し上げると、「親子だから、そういうところが似てるんだよね」とのこと。ありがとうございました。


それにしても、この桜の開花のようなタイミングのよさ。不思議です。



 S先生のくださった本は、鈴木正久牧師の著作を1年366日分に編集、配列した「喜びの日も涙の夜も」という本。
 今日4月9日のところを読むとイエスさまの復活についてこんなメッセージ

イエス・キリストの復活について聖書が告げる重要なことのひとつは、それが一般人ばかりでなく、弟子にとっても全く信ぜられなかったことである。そして、キリストご自身が自分を彼らに現わし、彼の力をもって説得したもうことによってのみ、弟子は復活を信じたのである。すなわち、主の復活は私たちによって考えられ得る一切の不死、霊魂不滅と異なる。反対に、考えられず信ぜられないことが私たちに対して起こることなのである。・・(中略)・・・エスの復活は・・・・死と絶望としか見えない私たちに、全く予想に反した新しいことが起こることを告げるのである


 復活は人が容易に信じられない不思議なことだからこそ、信仰が必要なのであって、人が容易に信じられるようなことなら、信仰など必要ないわけですね。


 しかし不思議だからと言って、信仰とは理性を否定することではなく、理性の超越です。非理性ではなく超理性。


「神を信じるということは人間の理性を否定することではない。もしそうであるなら、人間を放棄しなければならなくなる。信ずるとは、神の無限の理性の中にある一部分に過ぎないことを知ることである」(松村秀一)


 先日、我が家の小学生と幼稚園の子どもたちに「テレビがなぜ映るのか」と質問されて、困りました。


 テレビが映ることを説明するには、まず、電磁波の概念を説明しなければなりません。さらに、映像を電磁波にするためのシステムや、反対に電磁波を映像にするための仕組みも説明しなければなりません。しかし、こどもたちには、まだ、これらを理解するための理性がおいついていないわけですから、説明してもちんぷんかんぷんです。しかし、こどもたちがちんぷんかんぷんだろうがお構いなしに、テレビは映ります。


 復活ということもまた、私たちの理性がおいついていないことなので、理性的にはちんぷんかんぷんなのではないでしょうか。しかし、そんなことおかまいなしに、2000年の間、そして今も、復活を信じている教会が、世界中に存在していることはだけは、否定しようのない事実です。


 自分のちっぽけな知識、経験、そこから導き出した否定的な予測に心を縛られてしまって、明日への希望を失ってはいませんか。


 自分の人生に、全く予想外の「不思議」など起こらないと決め付けてはいませんか。



「復活」


それは、「死と絶望としか見えない私たちに、全く予想に反した新しいことが起こることを告げる」神の出来事なのです。