ふー説教って・・・

shuichifujii2008-04-11

 小雨が降ったりやんだりの、少し寒い一日でした。嗣音を幼稚園に迎えにいった帰りに、日和山公園に桜を見にいきました。パラパラと咲き始めたようです。


 午後、ユキティさんとママさんが遊びに。私はいろいろ用があって、ちょっと顔をだしたり、出かけたり。ママさんが「主人が、何日か牧師さんの声を聞かないとさびしいなぁっといってましたよ」と言われる。

 私の声というより、聖書のメッセージなんじゃないかな。そうあってほしいな。いずれにしろ、うれしいことだなぁ。


 さて、日曜日の説教、メッセージは、時間にしたら30分程度ですけれども、その準備に、私は、最低20時間はかかります、というか、そのくらいは時間をかけるようにと教わってきました。もちろん、時間をかければいいってものでもないのですけれど・・・・


 説教は、単なる聖書の解説ではなく、今、まさに神様が私たちに語りかけてくださる言葉として、聖書から聞き取っていかねばなりませんので、祈りがなければ始まりませんし、聖書を何度も何度も読み、原典のギリシャ語、ヘブル語にあたる必要があれば調べ、いくつかの注解書や参考資料や、聖書全体の神学を元に、聖書テキストの意味を確認する基本的作業を経て、今、この聖書箇所から、主は何を私たちに語っておられるのか、心の耳を澄まして、メッセージを聞き取り、組み立て、わかりやすさのために、例話やたとえを探し、最終的には、自分は完全原稿にします。


 いつも、生みの苦しみです。


 ある牧師さんが、出産をひかえた奥さんに言われたそうです。
「説教なんて、出産に比べたら、楽なもんね」と奥さん。
そういわれて牧師さん、こう言い返した。「なにいってるの。あなたは、あるものを出すだけじゃないか。わたしは、ないものを出すんだから、大変なんだよ」(これはあくまで、この御夫婦の会話ですので・・)


 神様の御言葉を語る。メッセージを語るというのは、「自分にないものをだす」ということ。自分の思想や言いたいことのような、「自分にあるもの」を出すのは「お説教」。しかし、「自分の中にはないもの」。つまり聖霊に導かれ、聖書から聞こえてきたメッセージによって、「自分にあるもの」が問われて悔い改めたり、変えられたり、成長したり、そういうことが起こるのが「説教」。


 だから、「説教」ってなにが起こるかわからない。

 そして、今日も、こつこつ、説教準備。