新年最初の礼拝

shuichifujii2009-01-04

 今日は、新年最初の礼拝。Oさん、Yちゃん、TRさん。そして突然、Nさんと三人のこどもたち。Nさんはいつも夏に酒田に帰郷され、礼拝に出席してくださるのですが、年末突然思い立って帰郷なさり、今日、礼拝にも参加してくださいました。嬉しかったです。


 礼拝のあと、みなさんに「今年の抱負は?」と伺ったら、TRさんは、「朝起きたら、聖書を開きます。」とのこと。すごいなぁ。


 それを聞いたNさん「なかなか聖書って読むのが大変ですよね。自分から読むのは難しい。でも数年前から教会学校の先生をするようになって、こどもたちに聖書のお話をしなくてはならなくて、自分でも一生懸命読むようになったんですよ」と言われます。


 それを聞いたわたしは、「なんだぁ、それならTRさんに子どもたちに、聖書のお話をしてもらいましょ。『聖書教育』っていうアンチョコ、いや、教案誌もありますよ。もちろん、毎週じゃなくていいですよ。たまにはどうですか?」


「いやいや、10年早いですよぉ」とTRさん。


めげないわたしは、「Oさんもどうですか。子どもたちのためというより、ご自分が聖書をしっかり読むためのよい機会になりますから、ぜひぜひ」と、調子に乗って、皆さんにもしつこく迫る。


まあ、あんまりしつこくすると、嫌われたらこまるので、その辺でやめときました。



 聖書を人に語るというのは、実は、「語る」人がまず一番よく「聴く」人になることなのです。聖書を語るというのは、そういうことです。


 ですから毎週説教をする牧師は、その説教を一番最初に「聴く」聴衆の一人であるわけです。そして、人に語る前に、まず、自分自身が悔い改めさせられます。ちなみに今日は「人生の優先順位」というテーマでしたけれども、説教を準備しながら、聖書の御言葉によって、自分のあり方は、それでいいのかぁ。天に宝を積むものとして、優先順位を間違えていないかぁ。時間の使い方は、お金は・・とまず自分が、聖書の言葉に問われるわけです。


 そういう意味で、聖書を語るということは、自分がまず一番の聖書の聞き手になることです。聖書に問われ、自分自身が変えられていくことを喜ぶことです。もし、そうならないなら、ただ持論を語ったのであって、聖書を語ったことにはならない、というわけです。


 というわけで、本当の意味で「聖書を語る」ということは、語る人にも聴く人にも、恵みなのですね。


「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」(コリントの信徒への手紙1 14章1節)