宗教には、頑張れば正しいものと認めてもらえる宗教と
頑張っても、正しいと認めてはもらえない宗教があって、
キリスト教はその後者なんですね。
なんといっても、
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
がイエス・キリストの教えなのですから。
これが、
「あなたの敵と戦い、迫害するものを呪いなさい」
ならば、頑張りがいもある。
「これは正義の戦いだ、聖戦だ」と、自分の力で悪をやっつけていけばいい。
もちろん、いつも自分は正義の立場。敵は悪なのだから。
ところが、キリスト教は
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
なんです。
これがキリストのもとめる、「正しさ」
目の前の人との関係において、自分に不利益をもたらす人をさえ愛するのが
「神の正しさ」のレベル
この鏡の前に立たされてしまうと
どんなに頑張っている人も、いや、むしろ頑張っているので、敵が多くなってしまう人ほど、
「自分は正しい」とは、言えなくさせられてしまう。
この、神の前に自分のことを正しいとは言えなくさせられてしまう、というところに、キリスト教の大切なポイントがあるんだよね。
100%正しい主イエスが、十字架につけられ
その十字架の上で、ご自分を馬鹿にする人々、殺そうとする、正しくない人々ために、赦しを祈るという、
このキリストの鏡の前に立たされてしまうと、
自分は、こういうレベルの正しさも、愛もないし、結局は、自分が第一、自分がかわいい。
自分を馬鹿にする、あの正しくない人間に、いい返さないと、いられない。やられたらやり返すべし。
そんな、「自分かわいい」という、本音もぽろっと出てくるわけです。
イエス・キリストの言葉は、そういう隠れていた「自分かわいい」という本音に、気付かせてくれる。
この気付きを経て、そんな「自分かわいい」ものをさえ救うという、あってはならない「神の救い」に気付かされていくわけだから。
このわたしが神に救われるのも、神に愛されるのも、これは、当然の権利ではなく、むしろあってはならないことなのだから。
100%正しい主イエスが十字架に死に、正しくないわたしが、救われるなんて。
でも、神はそうなさりたかったから、そうなさった。
ただ、この神の恵みを、感謝していただく。
このままの自分で、神に赦され、愛されているという、「決してあってはならない、大きな犠牲の払われた、神の恵みによる救い」という、土台に、ちゃんと立ちつづける。
「神に赦されている」「神に愛されている」「神に救われている」「だから大丈夫」
この「神の救い」という土台にちゃんと立たないと、自分で頑張る小さな世界から、次に進めないんですね。
この「神の救い」という福音の上にたちつづけ、自分の頑張りとは違う力、
神が心の内に働かれることへと、心を開いてゆだねはじめると、
不思議なことに、むしろ自分の力ではできなかったことが、できるようになったりするのです。
一番の難関は、ゆるせない人を赦し、愛せない人を愛するという、自分自身の心の問題。
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈る」というキリストの言葉に生きること。
この自分の頑張りでは決して無理である、自分自身の心の変化を、
神が救い、神が働くという、神の霊の導きのなかで体験していく、内面的な「平安」「癒し」という神秘は、
やがて、その神の内なる働きかけに応える、具体的な行動へと実っていき、
身近な関係から、そして社会、世界へと、
「争い」と「分裂」のあるところに、共にいきる「平和」を創りだし、
人と人とをつなげる存在となっていく。
ここに、キリスト教を信じることの、ダイナミズムがあるんですね。