「愛を分かち合う者へ」(花小金井キリスト教会2016年3月13日主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書10章21節〜37節

あの3.11の出来事から、丸5年。今年はあのときと同じ、11日が金曜日でした。

思い起こせば、主イエスが十字架につけられたのも、金曜日。息を引き取られたのは、その午後でした。

そして金、土、日と数えて、三日目の朝の、あの出来事の希望に支えられえて、今、わたしたちはここで礼拝をしています。

5年前の3月13日の朝も、絶望の暗やみのなか、光をもとめるように、それぞれの場所で、教会に集って捧げた礼拝。

今も忘れることができません。

あれから5年の月日が流れました。この間、多くの人々が被災地を覚えて祈り、できることをなさったことでしょう。

東北にある、わたしたちの仲間の教会も、今に至るまで仮設住宅を訪ねてきましたけれども、

5年の間に、仮設から出られる方も増えて、これからは仮設での集会とは違う形で、個別に寄り添っていくことになるでしょうと、ニュースレターに記されていました。

東北にある教会も、正直言って、それぞれが自分たちの教会のことでも大変なことを、わたしも東北にいた人間として、少しは知っているだけに、彼らがいまだに、今日の主イエスのたとえ話の「善きサマリア人(ひと)」でありたいと、自分たちにできることを続けている。そんな仲間をもっていることを、誇りに思います。


強盗に襲われ、倒れている人が、目の前にいた。

その人を見て、何の理屈もこえて、ただ「憐れに思う」気持ちに押されるようにして、近寄り、傷に、油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行き介抱した、このサマリア人(ひと)。

この、心の中から湧き上がってきた「憐れみの心」。この湧き上がる思いに突き動かされて、ただ自分にできることをして、愛を分かち合う、このサマリア人の姿こそ、

「永遠の命」を受け継ぐ人の姿であることを、主イエスは教えておられます。

誰かが見ていてくれるからでも、ほめてくれるからでもなく、

内からあふれ出てくる憐れみの心に、まっすぐに生きる命の姿こそ、「永遠の命」「本当の命」を受け継ぐ人の姿。


ですから、これは、何をすれば、神に褒められて、「永遠の命」をいただけるのかという、神との取引話ではないのです。

しかし、律法の専門家は、主イエスにこう質問しました。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と

「何をしたら」神様のお眼鏡にかなって、「永遠の命を受け継がせていただけますか」

滅びない命を、死を越えた命は、なにをしたら、いただけますか。

何をしたら、神はわたしを救ってくださいますか。何をしたら、どれだけ頑張ったらいいんですか・・・

そのように、自分の力で神の命を手に入れられると思い違いをしていた彼に、主イエスは答えません。

むしろ、彼自身に答えさせます。あなたは、旧約聖書の専門家なのだから、律法に何と書いてあるか。あなたはどう読むのか、いってみなさいと問われます。

彼は答える。

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」

旧約聖書申命記レビ記にある言葉です。

主イエスは答えます。「正しい答えだ。それを実行しなさい、そうすれば命が得られる」と


しかし、彼は食い下がったのです。自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは誰ですか」と問いなおしたのです。

正当化しようとした、ということは、彼には、なにか後ろめたい気持ちがあったということでしょう。ほかの翻訳では、自分を弁護したと書いてあります。

「わたしの隣人とは誰ですか」


そう言わずにはいられなかった、彼の気持ちは何だったのでしょう。

異邦人も隣人ですか。あのいやなサマリア人も、隣人ですか。

そのように、無制限に愛することなどできるわけがないでしょう。隣人とはだれのことかちゃんと決めてほしい。そうすれば自分も愛することができる。頑張れる。

そのように、自分を守り、正当化した彼の気持ちは、わたしたちもわからないではありません。


わたしたちも、「神を愛することと、隣人を愛する」という律法を、主イエスが教えてくださった、大切な教えとして聞いているからです。

そのうえで、職場、学校、家庭、教会の、さまざまな人間関係のなかで、「隣人」を愛するということの、難しさを経験しているからです。

つい、その人の言葉に、イライラしてしまうことがあるからです。考えや感じ方や、振る舞いからの違いに、

隣人を愛する、ということの難しさを、だれもが感じているでしょう。

「隣人を自分のように愛しなさい」

この言葉に、まっすぐに向き合うなら、この律法はなんと厳しく、心を探ってくるでしょう。

もし、「隣人を自分のように愛する」ことが、永遠の命を受け継ぐことの、条件なら、

隣人を愛することに、失敗だらけのわたしたちも、この律法の専門家のように、自分を正当化したくなるでしょう。弁護したくなるでしょう。

無理だ。厳しすぎる。さらに、追い打ちをかけるようにして、この「善いサマリア人」が、自分を嫌っていたユダヤ人を助けたように、あなたも、同じようにしなさい。

それが永遠の命を受け継ぐ条件だということなら、こんなに怖いお話はない。自分は大丈夫だろうか。救われるのだろうかと、苦しくなるでしょう。

そう考えてしまうなら、それは、どこかで、ボタンの掛け違いをしています。

そもそも、この律法の専門家が、主イエスに最初に質問したことから、ボタンの掛け違いは始まったのです。

彼はいいました。「何をしたら、永遠の命を受け継げるのですか」と

「何をしたら」と、自分の行いによって、神を動かし、神の救いを、「永遠の命」を手に入れたいというところから、ボタンの掛け違いは始まっています。


それは結局、「神を愛する」のも、「隣人を愛する」のも、自分が救われるためだといっているのですから。

自分が救われたいから、神を愛し、隣人を愛しますと、神と取引をしようとしているわけですから。


それでは、何をしても、どんなに犠牲を払っても、ちっとも神を愛してなどいないし、隣人を愛してなどいない。結局、自分が救われるために、神と隣人を利用しているだけなのですから。


神を愛するのも、隣人を愛するのも、その理由が、動機が、自分が救われるためであるなら、そこに、本当の命、永遠の命にいかされている、人の姿はありません。

まるで、ブラックホールのように、どんなに頑張っても、なにをやってみても、まだ自分は救われないんじゃないか、裁かれるんじゃないかという、不安や恐れに吸い込まれてしまうだけです。


そのような誤解に至らないように、この「善いサマリア人の話」は、ここだけを読むのではなく、すこし前の個所から読むことが大切です。

そこに大切なことが書かれているからです。

少し前、21節からの主イエスの言葉に、もう一度、ご一緒に耳を傾けましょう。

10:21 そのとき、イエス聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
10:22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
10:23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。
10:24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

これは、主イエスを知っている弟子たちに向かって語られた主イエスの言葉です。

あなたたちは、今、知恵あるものも、預言者も、王さえも見ることも、聞くこともできなかった、わたしを見ている。

「天の父からすべてを任せられた」このわたしを、永遠の命を受け継がせるわたしを、あなたがたが見ることができている、その目は幸いだと、主イエスは言われたのです。

先週学んだみ言葉では、弟子たちに向かって主は、「あなた方の名が、天に記されていることを、喜びなさい」といわれました。

主イエスを知っている時点で、あなた方の名は、天に記されている。永遠の命を受け継いでいる。

主イエスを知っているわたしたちは、今、すでに、永遠の命を受け継いでいるのです。今、永遠の命にいかされているのです。

ヨハネ福音書では、「永遠の命」とは、唯一まことの神であるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることだと、主はいわれます。

主イエスを知っているわたしたちは、すでに永遠の命に生かされている。


ですから、わたしたちは、自分が救われるために、神を愛するのでも、

自分が救われるために、隣人を愛するのでもなく、

永遠の命に生かされているものとして、その命に生き生きと生きていくのです。

その命が、生き生きと内からあふれ出た人のたとえが、まさに、このサマリア人のたとえ。

倒れている目の前の人を見て、内から湧きおこる、憐れみの心に動かされて、今自分のできることをした、このサマリアの人とは、

永遠の命に、すでに活かされている人の姿そのものです。

ですから、主イエスを信じ、永遠の命に生かされている、わたしたちも、このサマリア人のように、生きることができます。

むしろ、その永遠の命として、内から湧きあがってくる憐れみの心を、押し殺してしまうもの。

愛が、わたしたちの心から流れることを、阻もうとする束縛があることに、気づくことこそ、大切なことです。

目の前で倒れている人を見ながら、道の反対側をいってしまったレビ人や祭司のように、

わたしたちも、心の中から愛が流れないように、心が縛られてしまうことがあるからです。

道の反対側をいってしまったレビ人や祭司。彼らは、一見ひどい人間のように思えます。

しかし、ある人はこんな解説をします。

祭司は当時の決まりで、「死人」や「血」にふれると汚れたことになってしまって、一定期間、職務が果たせなくなる。仕事ができなくなる。だから、しかたなく通り過ぎたのだと。

つまり、助けたいという気持ちはあったのだけれど、その心を押しとどめさせる力が働いたということです。

申し訳ないが、自分には、しなければならない仕事がある。彼のことを、たくさんの人が待っていたのかもしれません。だから、今、あなたにかかわることはでいない。

そうやって、自分を正当化しながら、道の反対側をいってしまった。

この祭司やレビ人のような姿は、きっとわたしたちも、経験があるはずです。

一番身近な人を、大切にしなければならないときに、道の向こう側を通って、仕事や他人の方に行ってしまった時

今は忙しいから、あとで必ず埋め合わせをするからと、道の向こう側を通って、二度と来ない、一緒に過ごす時間を捨ててしまった時

喉まで出かかった大切な言葉を、言えないまま、道の向こう側を通って、逃げてしまったあの時



どうか気づいていただきたいのは、このサマリア人(ひと)が行ったこと自体は、小さなことであり、偉大なる自己犠牲でも、愛の大事業でもなかったのだということです。

律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐのか」と、大げさにいうほどの、偉大な行いをしたわけではないのです。けがの手当てと、宿屋に連れて行った介抱した。宿賃を置いて、また行ってしまった。行ったことは、実に小さなことです。


つまり「なにをしたか」ということを、主イエスは問題になどしていないのです。そうではなく、ただ目の前のけが人を見て「憐れに思った」その思いに、まっすぐに生きるということ。

「大事なようがある」。「今は忙しい」。「あの人は隣人ではない」。そういう自分の思いや考えから解放されて、

心の底から湧いてくる憐れみに突き動かされた、サマリア人のように、

あなたも同じようにしなさい。できるのだからと、言われたのでしょう。

主はできないことを、不可能なことを、求めたりはなさらないのですから。

主が求めているのは、大きな自己犠牲などではなく、心から湧き上がる憐れみに、素直に生きていきなさいという、ただそのことなのだから。


東北の教会が、今に至るまで、被災地に生きる人たちと関わり続けるのも、そうせずにはいられない、内から湧き上がる憐れみに動かされているから。

なにをするかではなく、小さなことしかできなくても、かまわない。役に立つとか立たないとかではなく、

わたしは、あなたのことが、大切なんですと、その心の思いが伝わること。憐れみの心が伝わること。

天の父が、主イエスの十字架を通して教えてくださった、神の深い、深い憐れみを、

その、神の憐れみに生かされている、わたしたちを通して、素直にまっすぐに、その心が誰かに伝わること。

それが、永遠の命を受け継ぎ、活かされているわたしたちの姿。


最後に、ヘンリナウエンの言葉を紹介して終わります。

「憐れみに満ちた生き方を、自己否定的で英雄的な生き方だと考えるなら、悲しいことです。
憐れみに満ちた生き方とは、人々の関心を得ようと上に向かう生き方ではなく、
連帯を求めて下へ向かう生き方です。・・・

はっきりいえば、憐れみを生きるとは、ごく普通の日常生活の中に隠されていることです。

重要な問いとは、マザーテレサと比べることではなく、わたしたちと生活を共にする人々の小さな苦しみに向かって、
自分の心が開かれているか、ということです。

例えば、自分の好奇心を刺激しないような人と、共に時間を過ごしたという思いがありますか?
すぐには魅力のわからない人の話に耳を傾けることができますか?
この世の目の届かない隠された苦しみをもつ人に、憐れみ深くあることができますか?

・・・真の憐れみを生きるとはつねに、私たちがいまいるところから始まるのです」

祈りましょう