今日の黙想
コヘレト4章
「すでに死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」2節〜3節
一見、ネガティブな響きのある言葉。後ろ向きに感じる言葉。
でも、そうじゃないのだろう。
この「太陽の下」の世界を見つめるとき、
力ある者の理不尽な振る舞い、不条理で不可解な出来事、
どうにもならない悲しみ多いき現実を前に、
この世を生きなければならないことへのむなしさを感じる、ということは、
むしろ、本心をごまかすことのできない人の、まっすぐな心の叫びなのだから。
それは、たとえるなら、小さな部屋の中に一人で閉じこめられている閉塞感にも通じる。
その部屋の中から出ることができなければ、その小さな空間は、その人にとっての世界のすべて。
その閉じられた空間だけを見つめつづける人生なら、人はむなしくなって当然。
そのむなしさをごまかすために、部屋のなかでゲームをしているだけが、いきることなら、
なにをしてもむなしさは消えないでしょう。
コヘレトの言葉は、その閉じられた世界の閉塞感を「太陽の下」という言い方で語っているのだ。
しかし、その閉じられた部屋は、実は、無限なる外の空間と、薄い壁一つで、隔てられていることを主イエスは教えてくださった。
主イエスは、その無限なる外側から、壁をこえて、内側の部屋に入ってきてくださった。
クリスマスから始まり、十字架、復活、昇天、再臨とは、
見方を変えていえば、外側から、壁の内側への、神の愛の介入事件。
部屋の中がすべてだとむなしく希望なく生きている、この世に、
主イエスは外の光を見せてくださった。
この世という、小さな部屋は、入れ物は、無限なる外側、神の愛に包まれていることを。
この世は神に愛されていることを。
この世が完全に神の愛によって新しくなるそのときまで、
この世という入れ物の中でうめいている、私たちとともにいる。
壁の外側の無限なる神の愛と、わたしたちを、つないでくださっている。
そしてこの世界も、そしてあなたも
神がつくり、神に愛されているゆえに
生きるに値することを
聖霊によって語り続け、励まし、導いてくださっているのだ