「神による救い」(花小金井キリスト教会1月17日主日礼拝メッセージ)

ルカ9章18節〜27節


最近、月に一度「はれるやキッズ」という子ども会を、教会で始めたんです。新しい子どもたちを教会に招きたいからですね。

近所のこどもたち、わたしの小学二年の息子も、友達を誘ってくれるんですね。昨日は新しい男の子が3人も来てくれました。全部で9人の子どもたちでした。

昨日は、その子どもたちと一緒に、会堂で宝探しをしたんですよ。A4の紙に御言葉を書いて、それを6つに切り分けたものを、

今、皆さんが座っている椅子の下とか、わざとらしく置いた本の下などに、あちこちに隠したのです。

その紙をさがして、組み合わせると、御言葉ができあがるから、その御言葉を覚えて、牧師に言えたら、宝がもらえるゲームだったのですよ。

二つのチームが探し始めて、途中まではすぐ見つかったのだけど、どうしても最後の一枚が見つからないんです。

大人も一緒になってさがして、隠した本人のわたしも、どこに隠したのか忘れてしまって、一緒になって探しました。10分くらい捜したでしょうかね。その最後の一枚を。

途中で、もういいかな。つかれたなぁという気分になる。こどもたちも、「もうないんじゃない」。「絶対ないよ」とか言い出す。

隠した本人のわたしも、不安になる。もう、いいことにしようかなと、そんな感情が湧いてくる。その瞬間、寝そべって探していたら、前のほうの椅子の裏に、最後の一枚を発見したんです。「あったぞー!」「わー」

そのゲームの前に、よい羊飼いが、99匹を残して、1匹を探すお話を、紙芝居で子どもたちに話したばかりでしたから、

きっと子どもたちは、必死に、あきらめないで、探しつづける羊飼いの気持ちが、よくわかったでしょう。

不安と悲しみいっぱいの迷った羊。そんなわたしたちを、見つけて喜ぶ、天の神様の気持ちを、こどもたちは体験したでしょう。

わたしたちは、みんな、今週も、主イエスという良い羊飼いに捜してもらって、

「ああよかったね、もう大丈夫だ」と、群れに引き戻され集まる一人ひとりです。

先週も、たくさん傷ついた日々だとしても、もう、わたしたちは一人ではありません。

神が救い、神が集めてくださった仲間と礼拝できることは、実に幸いです。

主イエスへの信仰を告白できるのも、教会のさまざまな働きをさせていただくのも、

すべては、神様に愛されて、救っていただいたから。もう大丈夫だと安心した喜びの表現。


先週は、新年度の執事を決める総会をしました。選挙で選ばれた7人の方が、全員が、その日のうちに引き受けてくださって、神様に感謝でした。

執事という働きは、別に、それで人からほめられるわけでもないし、苦労も多い、まさに、「僕(しもべ)」ですよね。

みなさんの声を聞いては、一緒に悩んだり、祈ったり、時には、耳の痛いことも、忍耐して聞かなければならない立場になるわけでしょう。

なんとか、みんなが一緒に生きていけるように、教会生活ができるように、みえるところ、みえないところで、調整したり、お願いしたり、心を遣ったり、
自分の時間をたくさんささげて、人と人ととつなげてくださっている。本当にお疲れさまです。

 そんな大変な働きを、みなさん選ばれたその日のうちに、引き受けてくださって、ああ、こういうのを、神業と呼ぶのだと、おもいましたよ。聖霊の働きとは、こういうことを言うのだなと。

 ある、今回初めて執事の働きを受諾する決断をなさった方が、水曜日のお祈り会の時に、こう言われたんですよ。自分は、空中ブランコから飛んだんだなって。

ただ、神様が受け止めてくださることを信じて、わたし飛んだんだわ、と言われたんですよ。感動しました。

 どうぞ、皆さんもそれぞれのところで、ちょっと飛んでみませんか。

牧師がいったからではないんですよ。人に喜ばれるのでも認められるのでもなくて、神様の愛に感動して、押し出されて、

神様は、わたしをちゃんと受け止めてくださると信じて、ちょっと飛んでみませんか。

神は必ず救ってくださる。いや、すでにわたしたちは、神に救われているからこそ、わたしたちは、今ここに集められて礼拝しているのです。

先ほど朗読された御言葉のなかで、

主イエスから、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と、問われたペトロはいいました。

「神からのメシアです」 わかりやすく言えば、「あなたは、神の救いを実現なさる方です」。ギリシャ語でいえば、「キリストです」といいました。

わたしたちも、「神」が救ってくださり、「神」がここに集めてくださったことを信じて、同じように告白します。

あなたは「神からのメシア」です。人間の救いではなく、神による救いを、この世界に、わたしたち一人一人に、実現してくださるお方です。


 先週の夜の祈祷会のとき、Fさんが、長崎の5島列島にある教会に行かれた時のお話を、少し聞かせてくださいました。

富江(とみえ)教会、そして福江伝道所。本当に人のすくない、過疎(かそ)の島に、歩いている人も、ほとんどいないところに、時間が、ゆっくりゆっくり、流れて、魚が実においしい所に、

そこにも、100年以上前から、教会があるのです。誰かが福音を伝え、そして今にいたるまで、毎週、毎週、数人の人々が集まって、

今日もまた、主イエスに向かって、あなたは「神からのメシアです」「神の救いの働きをなさる方です」と、告白し、賛美をしているはず。

経済的、合理的、効率的なことからいえば、もっと人がいるところで、福音を伝えたほうがいいんじゃないかと、人間は思う。

でも、そうじゃないんです。福音とは、人間が頑張って人を救うという話ではなく、

神による救いこそ、福音だから。神が救うからこそ、そこにも、「教会」が生きつづけている。教会とはそもそも、神による奇跡の集まりです。

100人集まろうと、2人だけであろうと、そこで「あなたは神からのメシアです」「キリストです」と、主イエスへの告白や賛美をさせているのは、

執事であろうと、誰も見ていないところで掃除する人であろうと、

主イエスのために何かをしたいと、そういう人が起こされることは、これは、「神による救い」の、出来事、表れに、違いないのです。


先週の日曜日には、5000人以上の人々に、主イエスがパンを与えた奇跡の出来事を読みました。

わたしたちの目には、5000人もの人に食べ物を与えることの方が、この世界を変える、力ある奇跡にみえるでしょう。

それほどの力があれば、この罪深い世界を変えることができるんじゃないか。救えるのではないか。

それを当時のイスラエルの人々は、具体的に、ローマ帝国の支配の苦しみから、救ってくださるのが、メシア、キリストと思い込んでいたのです。

エス様が、活動すればするほど、そういう民衆の期待が、どんどん高まっていく。この方は素晴らしい。語る言葉、業において、力がある。

そういう期待がどんどん膨らんできた、そんなある時、

主イエスは、そんな群衆から一人退き、祈っておられたのです。弟子たちを側に置きながら。それが今日の聖書の冒頭の個所です。

そして弟子たちにこう尋ねました。18節。

「群衆は、わたしのことを何者だといっているか」18節

そういわれて、弟子たちは、群衆がどれほどイエス様に期待しているか、その声を伝えます。

「洗礼者ヨハネだ」といっています。ほかに、「エリヤだ」という人も、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」という人もいます。

 それぞれ、当時の人々の、期待や願いがこめられた、解釈です。

 それは、今に至るまで、この「イエス」という人は、なにものなのかと、様々な人が、それぞれの解釈を語っています。

道徳の教師、革命家、天才的な宗教家。様々なことを語ります。それは、その人々の期待や願いの反映でもあるのでしょう。

しかし、そういう人間が願っていること、思っていることではなく、

また、大勢の人が言っているからとか、あの学者、この学者の意見だとか、そういう人の思いではなく、

主イエスは弟子たちに、そして、わたしたちに問いかけるのです。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

人はどうでもいい。

「あなた」は、わたしを何者だと言うのか。

それは、今もまた、長崎の小さな島に集う数人にも、そして、今ここで礼拝している私たちにも、主イエスは問いかけておられます。

「あなた」は、わたしを何者だと言うのか。

ペトロは答えます「神からのメシアです」と

「神による救い」を実現するお方ですと。


それはこのルカの福音書を書き残した、最初の教会の告白でもあり、

そして今日にいたるまで、福音を伝え続けた、教会の告白。

あなたは、「神からのメシア」「キリスト」。

「神に油注がれ、神の救いを実現するお方」


そのように告白できるわたしたちは、幸いです。


神が、そのように告白させてくださるのだと、マタイの福音書に、記されています。

このことを現したのは、人ではなく、あなた方の天の父なのだと、いわれています。

エスをキリストと告白する人々が、今日も、ここにあつまっています。

とにかく、この不思議さに、神が働かれている、救いの出来事に、感動する心をわすれないでいたい。、

イスラエルの人々が、「神による救い」とは、ローマの支配から解放してくれる、具体的な力だ、権力だと、思いこんで、

今、すでに目の前で神が主イエスにおいて、救いの働きをしてくださっていることに、気づかないようなことにならないように。

引き続いて、イエス様の言葉に耳を傾けましょう。



21節からお読みします。

「イエスは弟子たちを戒め このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた」

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」


ここで主イエスは、ご自分のことを指して、人の子と言われます。「メシア」とか「キリスト」という言い方を、あえて避けているのかもしれません。

力や権力で支配する救い主と誤解されないようにと。

そして、人間によるのではない、「神による救い」が、どのようになされるのかを、主は、こう語られました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と


このときをきっかけにして、主イエスはなんども、この十字架と復活の予告をなさいます。

しかし、何度聞いても、「弟子たちにはその言葉の意味が分からなかった」と書かれています。

弟子たちは、「神による救い」が、わからない。いや、わかりたくなかったのかもしれません。

力強く、神の言葉を語られ、病の人々をいやされ、飢えた人々にパンを与えてくださるこのお方が、

苦しめられて、排斥され、殺されるということが、何の救いになるのかと、弟子たちはわからなかったでしょう。受け入れられなかったでしょう。

でも、ここで注意したいのです。

主イエスは、「神による救いを実現する」ために、ご自分がこれから、なにをするのかと、語っているのではないのです。

ご自分から、十字架に命を捨てるとか、ご自分から進んで苦しみを受けるということを言っているのではないのです。

そうではなく、むしろ反対に、ご自分が、人からいったいなにをされるのか、ということを告げたのです。

長老、祭司長、律法学者たちから、そして群衆やローマ兵たちから、主イエスは何をされるのか。

主イエスが何かをするというのではなく、人々が主イエスに何をするのかを、告げたのです。


やがて、主は、暴力的にとらえられます。その時、弟子たちは戦おうとしますが、それをやめさせ、されるがままになさいます。

不正な裁判を受けた時も、一言もご自分を弁解なさらず、その言葉をすべて身に受け、死刑の判決を受けられます。

そしてローマ兵に嘲弄され、馬鹿にされ、十字架につけられてからも、

「おまえが神のキリストなら、自分を救え」と「言葉の暴力」を、ひたすら受け続けられる、主イエス

なぜ、戦わないのだろうか。なぜ、人のその悪と不正と暴力に、主は、抵抗なさらないのだろうか。

なぜ、されるがままに、その人の罪を、受けつづけ、苦しみ、排斥され、十字架にさえつけられ、殺されるのだろうか。

なぜ、イエス様は、そんな予告をなさるのだろうか。

ペトロは、この時、主イエスのいわれたことが、わからなかったにちがいない。

それでは、ちっともペトロが望んでいる、救いにならないから。この世の悪、罪のまえに、なんの抵抗もせず、殺されてしまうのは、救いではなく、敗北じゃないか。

人は、そう考えるでしょう。人間の救いなら、そう考えるでしょう。

しかし、主イエスの受難の予告の、その最後に言われた、この一言を、忘れてはならないのです。

「三日目に復活することになっている」

人間にはわからない。人間の理解をこえている、神の出来事が、救いが、復活があるのだと。

なすがままに、人の悪と暴力の、すべてを受けとめ、十字架の上で死なれる、主イエス

その、なすがままになさった主イエスにおいて、人の罪と暴力の闇が、これ以上ない形で現れたその時、

その死んだはずの主イエスを、

神は、復活させられる。

人の罪の暗闇がどれほど暗くても、そのすべてを受け止め殺される主イエスを、

神は復活させられる。

それは、つまり、どれほど、この世が、罪と暴力にまみれていても、神は見捨てない。神は救うのだという宣言。

それが、「三日目に復活することになっている」という主イエスの言葉。

この世界が、どれほど希望なくみえようとも、主イエスが復活させられ、今も生きて働いておられるのなら、

この世界に、いつか必ず、神の国はやってくる。救いは実現する。わたしたちは、そう信じます。

今日の聖書の御言葉の最後。27節では、主イエスはこう言われます。

「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国をみるまでは決して死なない者がいる」と

これは、死なない人って誰なのだ。今も生きているのかという、そういう話ではなくて、

そうではなく、むしろ、主イエスをさえ殺してしまう、この罪深い世界でさえ、

神の国をみる日がやってくる。神はこの世もあなたもわたしも、滅ぼさないで、救ってくださるという希望の言葉でしょう。

この世がどんなに希望なくみえようとも、また、わたしたち自身が、どんなに希望ない人間に見えようとも、

いつか、神の国をみる日が来る。そういう意味で、わたしたちは死なないし、滅びない。

だから、目の前の現実に、あきらめないで、投げ出さないで、自分の十字架を背負って、主イエスに従っていきましょう。

それが、今日のメッセージです。

大丈夫。人の罪が十字架につけた主イエスを、神は復活させた。

「神によるの救い」は決定的になった。やがて完全にこの世は救われ、神の国をみる日が来る。


この「神による救い」が、腑に落ちたなら、もう、わたしたちは、自分で自分を救おうと、じたばたしないでもいいのです。

24節で主イエスはこう言われます

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」


 これは殉教のすすめではありません。主イエスのために命を捨てると、天国にいけるという、話ではないのです。

それでは、自爆テロをする人たちとなにが違うのでしょう。自分で頑張り、自分の命を捨てさえすれば、天国に入れると考える。

それこそ、自分で自分を救おうとする、究極の「自力救済」ではないですか。

わたしたちは、そういう「自分で自分を救わなければ」という恐れと束縛から、解放された仲間です。

救うのは、「神」なのだから。そして、「神による救い」は、主イエスにおいて、すでに実現したのだから。

自分で自分を救うために、力を求め、能力を求め、権力を求め、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼすようなことから、解放された仲間です。

今、自分がどれほど情けなかろうと、罪まみれであろうと、失敗だらけであろうと、「神による救い」は変わりようがない。


決して主は、わたしたちから離れることはない。インマヌエル。永遠に、共におられる方であることを、信じます。


わたしたちは、もう自分で自分を救うのではなく、そういう自力を捨てて、主の愛に生かされて、聖霊に導かれて、

日々、自分の十字架を背負って歩みます。

天の父が、罪深く、滅ぼされて当然の人間を、なお、切り捨てようとはなさらなかったように。

「それでもなお」わたしたちと、共にいてくださるお方に、成ってくださったように。


わたしたちも、あの人、この人と、「それでもなお」 共に生きることを、あきらめません。

救われるためではなく、すでに、神に救われているのだから。神に愛され、神が永遠に共にいてくださるのだから。

わたしたちは、神の愛に押し出され、聖霊に導かれて、自分の小さな十字架を、背負います。

傷つき、悩みを背負いながらも、

あの人、この人と、なお、共に生きる道を、歩みます。

それが、主イエスが言われた、

「わたしのために命を失うものは、それを救う」ということだと、信じるからです。

祈りましょう。