プライドのありか

今日の黙想
詩編137編

「どうして歌うことができようか
主のための歌を、異境の地で」4節

ユダの民が、捕囚の地バビロンで歌った嘆きの歌。

大国バビロンに連れ去られ、奴隷のような立場で蔑まれたであろうユダの民。


「わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから」3節後半

さて、先の戦争で日本は敗戦し、連合軍に占領された。

しかし、天皇を中心とする、いわゆる「国体」と呼ばれるものは、護持された。

いっぽう、ドイツはベルリンも陥落し、ヒトラーも自殺。いわゆる「国体」と呼びうるものは、崩壊した。

その違いが、戦後、二つの国のありようを、決めていったように思えてならない。

「国体」とは簡単にいってしまえば、国のプライドのようなもの。

ちっぽけなプライドが膨らみ、プライドとプライドが争いを引き起こす。

そんなプライドが一旦完全に崩されたドイツは、
過去の自分たちの上に立ち得ず、変わることを余儀なくされた。

しかし、プライドが水面下に温存され続けた日本では、今再び、そのプライドを膨らまし始めた人々が、

「先勝国から植え付けられた自虐史観を改めよ」と、歴史修正主義を主張し、過去を美化し、その上にまた立とうとしているように見える。

ユダの民は、捕囚の出来事を通し、バビロンから屈辱を受ける。そのことがむしろ故郷エルサレムへの思いを強くすることになったことが、うかがえる。

エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい」5節

その後、ユダの民はエルサレムに帰還するが、入れ替わり立ち替わり、大国の支配化におかれつづけた。

民族としてのプライドが叩かれ続けるなか、むしろ民族としてのプライドを「律法厳守」という形で守り、膨らましていったのだろう。

そして、ローマ帝国の占領化の時代、AD70年にローマと戦争を起こし、エルサレムは決定的に崩壊することになる。

エス様がなぜ、あれほど当時の律法学者たちを批判し、論戦し、神に立ち返るようにと、告げたのか。

そして、なぜ、そんなイエス様を律法学者たちは、憎んだのか。

本質的には、プライド、アイデンティティの問題なのだ

どこにあなたのアイデンティティはあるのか。

エルサレム」「日本」「伝統、文化」「民族」という、限定的なものか。

それとも、主イエスが教えてくださった

「父なる神に愛されている者」ということか。