「大いなる光を見るようになる」(2017年12月3日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2017-12-03

イザヤ8章23節〜9章6節

2017年最後の月になりました。今日から救い主イエス・キリストの降誕を待ち望むアドベントです。

アドベントは4週、その後にクリスマス礼拝が順当なのですけれども、今年の暦では4週目が24日。5週目が31日ですから、31日にクリスマス礼拝となるので、プロテスタント教会の多くは、前の週の24日にクリスマス礼拝をします。

ですから、アドベントの4回目がクリスマス礼拝当日になるのですね。1週早まります。

予定日よりちょっと早く、イエス様がお生まれになるわけですけれども、早く来てくださる分には、感謝なことかもしれません。

救い主が、メシアが来てくださるなら、わたしたちは救われるのだ。

その昔、イエス・キリストがお生まれになる前の時代。

天地を造られた神が選ばれた、イスラエルという小さな民族が、

大きな大国に占領され、苦しんでいるその苦難の中で、

やがて我々を救う、神の救いが、救い主がやってくると、

神の言葉を語る預言者が、なんどもなんども語ってきた、その約束が、

時満ちて、今から約2000年前、ガリラヤのナザレに生きていた、マリアという女性の中に、救い主が赤ちゃんとして宿られた。

何百年も前から、預言者が語ってきた、救いの約束、メシア、キリストの約束が、

このイエスというお方において、実現しました。

わたしたちは、そう信じさせていただいて、救いの喜びをいただいて、今、ここに集っています。

そして主イエスによって始まった救い、神の国の種は、どんどん広がり、

やがてこの世界のすべてを、神の国へと救い出す、究極的な平和に至る救い。

その救いの完成する日が来ることを信じて、今、この苦しみ多い世界のなかで、わたしたちは天を見上げて生きています。

神が約束なさった救いの言葉ゆえに、神はちゃんと責任を持って実現なさる。

神が実現するのだから、目の前の現実がたとえ厳しく見えても、わたしたちは、天をみあげて、その日を待ち望み、希望をいだいて、今日という日を生きることができるのです。


アドベント。主イエスが来られる日を待ち望む。

それは、神の約束は必ず実現することを、信じた人々の、ありよう。生き方です。




さて、今日、朗読された、預言者イザヤの言葉。

これは、主イエスがお生まれになる、約700年ほど前。イスラエルの民のなかに蒔かれた、神の救いの約束の言葉でした。

9章1節で、イザヤは、このように語ります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」

この「闇の中を歩む民」とは、誰のことをいっているのでしょう?

これは、直接的にはイザヤの時代のイスラエルの民のことです。

このとき、巨大なアッシリア帝国に侵略されることを恐れていた、「南ユダ」のことだと言われます。

 すこし説明がひつようでしょう。

聖書によると、神は最初にアブラハムを選ばれて、彼の子孫を祝福すると約束なさいます。

アブラハムの子孫はやがて増え広がり、イスラエルと呼ばれる民となる。

12の部族の連合体をへて、イスラエルはやがて、王様を立てて、統一国家。統一王国となるのです。

その3代目の王ソロモンが死ぬと、国は二つに分裂してしまいます。

それは、北イスラエルと南ユダ王国と呼ばれました。

 そして時が過ぎ、イザヤがこの預言を語ったころ、まず北イスラエルが、アッシリア帝国の攻撃を受け、侵略されていたのです。

 一方、もう片方の「南ユダ王国」は、アッシリアに貢物を送りながらも、次は自分たちがアッシリアによって、侵略されるのではないかと、恐れていた


そのような、国の行く末を案じ、不安と恐れのなかにいた、南ユダ王国のことを、

「闇の中を歩む民」とイザヤは語っています。

国の行く末を案じ、大国との戦争に巻き込まれることを恐れているというならば、

それは今、北朝鮮アメリカの対立のはざまに置かれているわたしたち日本の状況と、似ていなくもないでしょう。


戦争に巻き込まれるのではないか、これからわたしたちはどうなってしまうのか。

そのような未来に対する、不安と恐れの闇の中を、わたしたちも歩まされているのではないでしょうか。


大国アッシリアによって、北イスラエルが滅ぼされ、自分たちも危ないと、「闇の中を歩んでいた」南ユダの人々に、

預言者イザヤは語り始めます。

8章23節前半

「先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」と。

ゼブルン、そしてナフタリとは、北イスラエルの地名です。

イスラエルは、アッシリア帝国に辱められた。

イザヤは厳しい現実をまっすぐに見つめて語ります。

しかしそのすぐ後、まったく目の前の現実を越えた希望を、イザヤは告げるのです。

8章23節後半
「後には、海沿いの道、ヨルダンの川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」と、


占領されたナフタリと、栄光を受けるといわれている、「ガリラヤ」は同じ場所です。

今、アッシリアに占領され、辱められた「ナフタリ」は、やがて栄光を受けることになると、イザヤは言ったのです。


それは、この預言から数百年後に、ガリラヤの地に、主イエスが生まれ育ち、み言葉を語られることで、実現しました。わたしたちはそう信じています。



イザヤは、目の前の絶望的な現実から目を背けることなく、直視し、


同時に、そのはるか向こう側、のちの時代に実現する希望、幻をみて語っているのです。


イザヤは続けて語ります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者のうえに、光が輝いた」と。

イスラエルが滅ぼされ、自分たちも戦争に巻き込まれるという恐れのなか、

希望などなにもない、暗闇を歩んでいた「南ユダ王国」もまた、

やがて、「大いなる光をみる」ことになると、イザヤは預言します。

闇は、闇のためにあるのではなく、

むしろ闇とは、「おおいなる光」がみえる現場となる。

光は、「闇」のなかでこそ、光り輝く。

闇は、闇のままでは終わらないのだ。

「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見る」のだ。

イザヤはそう宣言します。

今、闇の中を歩かされていても、


それは、決して、神に見捨てられたのでも、裁かれているのでもないのだ。

闇の中を歩む民は、かならず「大いなる光」を見ることになる。

神の救いという光を、見ることになるのだ。


イザヤは2節から、このように語り続けます。

9:2 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。

9:3 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。


難しい言葉が並んでいます。

一つ言えることは、アッシリア帝国の軍事力におびえる、南ユダの人々が、

やがていつの日か、みることになる「大いなる光」とは、

軍事力による光ではないのだ、ということです。

「ミディアンの日のように」という言葉は、そういう意味があります。

「ミディアンの日」について、短く説明が必要でしょう。

その昔、イスラエルに、まだ王がいなかった時代。

12の部族をまとめていた、ギデオンというのリーダーがいました。士師と言われます。

あるとき、強大な力を持ったミディアン人に、イスラエルは苦しめられていた。

その星の数ほどいるミディアンの兵士との戦いに、神の示しを受けたギデオンは、たった300人の兵士で臨み、そして勝利したという出来事。

これをイザヤは「ミデアンの日」といっているのです。

つまり、人の力、軍事の力、経済の力が、イスラエルを救うのではなく、救うのは、神であるという、この一点を、強烈な印象で伝える物語。それが「ミディアンの日」

たった300人であろうとも、小さく弱かろうとも、

いやむしろ、人間の力が、小さく弱くされるところにこそ、神の救いの力は、豊かに現されるのだ。

それが「ミディアンの日」が示している真理。


4節では、そのことを、イザヤはこう表現します。

9:4 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。と

すなわち、力による殺し合いの道具は、もういらない。

火に投げ込んでしまえ。もういらないのだ。

神の救いは、むしろ人間が自分の力を放棄して、弱くさせられるところに現れる。

それはやがて、神の子でありながら、その力を捨てられて、

無力なみどりご、赤ちゃんとして、マリアのおなかの中に宿られる、

主イエスの到来によって、明らかになるのです。

イザヤは預言します

5節
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられたのだと。

巨大なアッシリア帝国の軍事力に、恐れおののく南ユダの人々に向かって、

また、戦争に巻き込まれるのではないかと、闇の中を歩んでいる、現代の日本に生きる私たちに向かって、

イザヤはいうのです。

ひとりのみどり子が、わたしたちのために生まれたのだと。

その子は、「権威が彼の肩にある。驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるのであると。


この世界の、どのような権威にも優って、権威あるお方が、

無力なみどりごとして生まれるのだと。

それこそが、「闇の中を歩む民がみることになる、大いなる光」であると、イザヤは預言しました。

やがて、異邦人の町ガリラヤのナザレに生まれ育つことになる、

エスと名付けられた小さな赤ちゃんの内に、

この「大いなる光」を発見した人は、幸いです。

そして、わずか30年の短い人生のすえに、人々からみ捨てられ、無力なままに、十字架につけられ死んでいった、

ガリラヤのナザレで生まれ育つ、主イエスの中に、

あなたの心の闇をも照らす、「大いなる光」を見いだせた人は、実に幸いです。

その人は、たとえ闇の中を歩んでいても、この「大いなる光」に照らされて、自分に与えられた人生を歩み抜いていくことでしょう。


さて、24日のクリスマス礼拝のなかで、Tさんの入会式が行われます。

そのときにしていただく、信仰告白を、準備していただいているのですけれども、

先日、その信仰告白と一緒に、Tさんが17年ほど前に、ある教会でお話しされた、メッセージの原稿を見せていただきました。

そのなかに出て来た、ある少女の証に感動したので、Tさんにお願いして、メッセージの最後に、みなさんにも分かち合わせていただきたいと思います。

Tさんが幼稚園の先生をしていた、その教え子さんのことです。
生まれてすぐに脳の腫瘍の手術をして、脳にたまった水を、胃におくるパイプを入れている女の子でした。

Tさんはその女の子の幼稚園の先生をなさったのでした。

そして時が過ぎ、ある日彼女のお母さんから電話がありました。彼女は高校三年生になっていました。

電話は慶応病院から。彼女は脳の手術をして、失明をしてした上に、命の保証もないという状態でした。

電話をきって病院に駆け付けたところ、失明した彼女はあれていたそうです。

「先生、あたしなにも見えないんだよ。突然見えなくなったんだよ。こわいよ、もう死んだ方がいいよ」

彼女はそれまでも、障害のために、小学校のころから多くのいじめにあっていたといいます。
それでも、「教会学校が唯一の救いです」と言われた時代もありました。

辛い時期を乗り越えて、優しい先生と仲間に支えられて、高校生活を送っていると聞いて、ほっとした矢先だったのです。

荒れていた彼女はお母さんを責めていました。

お母さんが言いました。「先生、二人で話してやって」と。

お母さんが部屋を出た後、彼女はいいました。

「先生、この間教会学校の先生が、神様はあたしのことを今でも愛しているっていったんだよ。ほんと?」と聞いてきました。

「ほんとだよ、神様はいつもあなたと一緒にいるって約束してくださったんだよ。苦しい時や悲しい時こそ、そばにイエスさまがいてさるって私は信じているよ。たかちゃんのようないい子、神様が嫌いになるはずがないじゃないの」と私は自分の心の中でかみしめる思いで答えました。

「そうか」といって彼女はじっと黙って私の手を握っていました。そのときそして「まっくらって、こわいんだよ」とぽつんと言いました。

 そして後日、お母さんから電話があり、こう言われたそうです。

「先生、あの子は変わったんですよ。『神様が私を嫌いになったから、こうなったんじゃないってよくわかった。神様は今でも私を好きなんだってわかった。そうだったらいいんだ。目が見えなくなってもいいんだ。イエスさまが私のことを好きなんだったらだいじょうぶ。一人でやってみる』となにも食べなかったのに、食べ始めたんですよ。ぼろぼろにこぼすけど。と弾んだ声で言いました。

彼女はイエスさまに愛されているとわかった時から、お医者さんや看護婦さんを驚かせています。歩行練習もして、自分で何でもやろうとして退院しました。

真っ暗で怖いともいわなくなって、一日おきに学校に行くようになりました。


この証から17年経った今も、彼女は元気で生活しておられるそうです。

預言者イザヤは言いました。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見るのだと」

闇の中にあっても、大いなる光をさえ見ることが出来るなら、

わたしたちを愛し、いつも、いつまでも、わたしたちの、その闇のなかに、

光として、共にいてくださるイエス・キリストが、

あなたの心の中に生まれてくださるのなら、

わたしたちは、もう大丈夫なのです。



「ひとりのみどりごが、わたしたちのためにうまれた」

主イエスキリスト。平和の君は、

今日、あなたの心の中に、新たに、生まれてくださいます。