具体的な現場で

今日の黙想

イザヤ1章


「むなしい捧げ物を再び持ってくるな
香の煙はわたしの忌み嫌うもの。
新月祭、安息日、祝祭など
災いを伴う集いにわたしは耐ええない・・・」13節

「善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して
搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り
やもめの訴えを弁護せよ」17節

主イエスの時代から約730年ほど前に、南ユダ王国で活躍した預言者イザヤ

当時のイスラエルの民の、神の民らしからぬ道を外した状況に対して、具体的な批判の言葉が続く。

「搾取する者を懲らし」「孤児の権利を守り」「やもめの訴えを弁護せよ」

要するに、互いに愛し合いなさいという諭しの言葉だ。

目に見えない「神の愛」が、目に見えるとすれば、

それは、具体的な人と人との関係において、実を結ぶことにおいてだからだ。

「神の愛」を説く宗教が、そのような具体性を失い、

ただきまりきったお勤めや、頭の中だけの観念の遊びに堕ちるなら、それはむなしい。

具体的な現場としての、夫婦、家族、教会などの、身近な人間関係において、

めにみえない「神の愛」が、目に見える実を結んでいかないなら、

祈りも、礼拝も、むなしい戯れになってしまうのだから。