ルカによる福音書1章5節〜25節
礼拝の最初、こどもたちによって、ふたつめのアドベントクランツが灯りました。
クリスマスを待ち望む、アドベントの第二週目です。
皆さんは、最近、何かをじっと待つ、という経験をなさったでしょうか
必要なものがあれば、すぐコンビニ。
知りたいことがあったら、スマフォをシュっとする。
待ち合わせに遅れそうなときは、携帯で連絡。
そんな時代ですから、なにかを「じっと待つ」という時間は、むしろ貴重で、幸いな時かもしれません。
なにか、自分がじたばたしなくても、大丈夫なのだ。神さまが愛の配慮をもって、ちゃっと導いてくださっている。よいことをなさってくださる。救ってくださる。
そんな信頼と希望から、「待つ」ことができる人は、幸いです。
教会のある方と話していると、「毎週、日曜日が待ち遠しい」と言われるんです。
本当は、毎日でもきたいのだけれども、事情もあるし、我慢して、日曜日まで指折り数えるようにして、日曜日の朝に、万感の思いをもって、教会に来られるわけです。
いきたいと思ったら、すぐに行けるわけではない。週に一度の日曜日を待ち望むからこそ、感じとれる、貴重で幸いなる、「喜び」というものが、きっとあるでしょう。
それは、その方だけの話しではなく、ここに集う皆さんも、きっとそうだと思うのです。
日々の生活の中で、心を縛りつけようとする誘惑、束縛、失望、恐れ。
そういうものと、自分はたった1人で戦っているわけではない。
週に一度、仲間たちが集い、共に、祈り、賛美をするとき。
共に神の愛の言葉にふれ、神の愛を思い起こす、主の晩餐に与ることで、
ああ、主はわたしたちと共におられる。インマヌエルと呼ばれる主イエスは、わたしと、わたしたちと共におられる。そういう霊的な出会いを、この礼拝で体験し味わう。
あえて譬えれば、遠く離れて会えなかった、愛する人と、やっと再会したときの、心燃える感動にもにているのかもしれません。
でも、それは、遠く離れる日々があったからこそ、
つらく、さびしく、かわりばえのない日常、いや、むしろ悲しみと、不安の日々を、歩まされるときこそ、
深く深く、味わい知ることのできる、待ち望んでいた、あの方との再会。
主イエスとの、出会いの喜びと、感動。
聖霊によって、今、この礼拝も、その現場となります。
今日、朗読された、聖書の御言葉は、バプテスマのヨハネが生まれるまでの、出来事でした。
メシアの誕生の前に、神の民の心を整え、備えをさせる預言者。ヨハネが生まれる。バプテスマのヨハネの誕生。
この出来事は、しかし、目立たない老夫妻の、かわりばえのない日常の中に、突如起こった神の出来事でした。
ユダヤ教の祭司、ザカリア。そして妻のエリザベツ。
祭司は、昔から決められている手順を守り、神に捧げものをする人。祭儀をする人です。
妻のエリザベツは、アロン家の娘と書いてあります。イエスさまの時代から1000年以上昔、イスラエルがエジプトの奴隷となっていたとき、モーセとアロンというリーダーを通し、神はイスラエルの民はエジプトの奴隷から解放した。
そのアロンの血筋。1000年の系図をたどれる由緒ある家系の娘。エリザベツ。
たしかにその昔、自分の祖先は、素晴らしい神の救いを体験した。
しかしこの時のイスラエルは、すでにそういう、目に見える神の働きも、言葉も、もう何百年も経験することもなく、
むしろ、今の自分たちの現実とは、「いったいわたしたちの神は、どこにいってしまったのか」と言いたくなる状況。
数百年の間、次々に大国に支配され、今も、ローマ帝国に苦しめられている、わたしたち、神の民イスラエル
先週の礼拝では、預言者イザヤの言葉を聞きました。やがて「平和の君」であるみどりごが生まれる。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る」と、イザヤが預言してから、すでに700年以上もの時が過ぎていました。
しかし、なにも目に見える救いは起こらぬまま、むなしくときが過ぎているように思えたことでしょう。
わたしたちが守るアドベントの礼拝は、4回。4週間です。しかしユダヤの人々が、メシアを待ち、捧げた礼拝の数の、なんと多く長いことでしょう。
その礼拝を、「しきたり」を守り、神殿で捧げつづけたのが、祭司。
その祭司の一人がザカリヤ。
8節にこうあります。
「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていた時、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった」
ザカリアは自分の組が当番で、くじをひいたら、自分があたって、神殿で祭司の務めをすることのなったのです。
当時祭司は18000人くらいいたそうなのです。それが24の組に分けられていた。
祈祷会でこの話をしたら、Mさんが計算機で計算してくださって、単純に割り算をすれば、ひと組750人だね、こりゃくじにあたらないね、と教えてくれました。
まあ、一年に二度、自分の組に当番が回ってくるそうなので、年24回ちゃんすがありますから、750人を24回で割ると31.25。
これは、同じ人は当たらないという前提ですし、祭司にも偉くて何度もする人とか、地方の貧しい祭司で、順番が回ってこない人など、いろいろいたかもしれないので、こんな単純計算通りにはならないでしょうけれども、
それでも、単純計算で、31年に一度、自分の番が回ってくるか、こないかという、
ある意味一生に一度あるかないかという、これは、ザカリアにとって、実に貴重な礼拝だったのだと、イメージすることは、ザカリアの気持ちを理解するのに、いいヒントになるのです。
一人で神殿の奥の、聖所に入り、香をたいて祈るという、自分だけに託された、大切な役目。このしきたりは、遠くダビデ王の時代に決められたと言われます。遥か昔から、守り続けてきたしきたり。
そのイスラエルの長い歴史ある礼拝のしきたりを、守り続けてきた伝統を、今日、ほかでもない、自分が守るのだ。ザカリアは高齢になっていましたから、もうおそらく2度と回ってくることはない、最後の大切な務め。それを今日、わたしがする。
ちょっと想像してみただけでも、ザカリアは、どれだけ緊張したことか。
わたしは牧師をしていて、結婚式とか葬儀とか、バプテスマ式とか、その人にとって一度きり、(結婚式は最近そうでもないのですけれど)の儀式をするときは、やはり緊張するのです。今回はうまくいかなかったので、次回頑張ります、というわけにはいかないですから。
ですから、手順をなんども確認し、頭に入れて、決められた通りに行う。それだけで、頭がいっぱいになります。なんどやっても、緊張する。
ところが、ゼカリアは、何度もやることさえ、できない。もしかしたら、これが生まれて初めて、香を焚いて祈る日なのかもしれない。
そうであれば、この歴史と伝統ある「おつとめ」を、つつがなく、決められた通りに、ちゃんと果たさなければならないと、ただそれだけに集中したでしょうし、頭がいっぱいになったことは、想像に難くない。
そういう意味で、祭司は、保守的、伝統的です。昔から続いていることを、「このわたし」がかえるわけにはいかない。そういう動機付けが強い。
わたしも、そんな祭司の気持ちがわかります。4月に花小金井に就任するまえに、主の晩餐式のやり方を、どのように行ってきたのか、Oさんに、ビデオでとっていただいて、そのやり方を踏襲しようと、頭に入れたのですよ。花小金井教会のやり方をちゃんと守らないといけないと、間違えるわけにはいかないと、わたしは事前に準備したんですよ。
そのほか、様々なこと、礼拝に関わること、教会のやり方とか、大切にしようと「わたし」は思っている方なんですけど、むしろ教会の方から、うちの教会は、牧師が変わると、やり方も変わってきたよって言われたりして、ちょっと戸惑っていることもあるんですね。
わたしは預言者というより祭司的なのかもしれないです。なので、この時の、ゼカリアの気持ちが、よーく分かるんです。
自分が変えてはいけない。きまった形を守るのが、私の務めだ。
それに対して、預言者という人は、そのように人が守りつづけているものに縛られずに、全く自由な立場で、上から神の言葉を与って、語ったんです。
昔、こういう神の業があった。神の教えをいただいた。それをわたしたちは守り続けるという、昔の神の話しではなく、
今、まさに生きておられる神が、こう言われると、神の御心を語り、人間が陥りがちな、保守的で、自分を守り、変わりたくないという、神の御心よりも、自分の思いを優先してしまう、罪を問うたのが、預言者でしたから。
イザヤもエレミヤも、バプテスマのヨハネも、当時の王をさえ恐れず、神の御心語ったのです。ゆえに、預言者は迫害されもするわけです。
しかし、主イエスを迎えるための、備えとは、神の救いを待ち望むときとは、きっと、そんな変わりたくないという自分が、問われていく時なのです。
祭司は、伝統を守ります。水は器がなければ運べないように、器としての、形、秩序を守ります。それは大切です。
しかし、預言者は、今、そのあなたの器のなかに、本当に命の水は残っているのか。入っているのかと、その本質をついてくるのです。
器だけを守りつづけるなかで、肝心の中身がなくなっていく。それは、わたしたちの信仰生活のなかにも起こりえること。
わたしたちの、こころのうちがわ湧き上がる信仰の喜びが、愛が、希望があるのかと、問うのが、預言者なのです。
器を守る祭司ザカリアのもとに、その器を問う、預言者バプテスマのヨハネが生まれた。この神の御計画の不思議さを思います。
この日、何百年も続けてきたしきたりを、今日も、守るために神殿に入ったザカリアの前に、
あってはならない想定外出来事が、起こるのです。
1:11 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。
1:12 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
自分が想定していなかった、神の出来事に遭遇する時、人は不安と恐れに襲われます。
そういう意味において、わたしたちも、自分にはコントロールできない、どうにもできない不安や恐れを感じる出来事と、遭遇するなら、
それは、もしかしたら、神の出来事とであっているのではないか。神の働きと、遭遇しているのではないか。
わたしたちも、そういう経験があるでしょう。
先週の、昼の祈祷会のとき、ある姉妹が、そんな証をしてくださいました。
目の前の不安な状況を、自分でなんとかしようともがいていた時にはどうにもならなかったのに、自分で何とかしようとするのをやめたとたん、周りの状況が不思議に
好転していったことを、涙ながらに語ってくださいました。神さまの働きを証してくださいました。
そうであるなら、わたしたちは自分でコントロールできないことのまえに、恐れることなく、むしろ、祈りに導かれていけばいいのでしょう。
1:13 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
天使は、この貴方にとって恐ろしい状況は、あなたの祈ってきた祈りが聞かれたことなのだ。喜びの出来事なのだ。
そう告げる天使。そして、15節からヨハネについていわれている言葉は、旧約聖書の一番最後のマラキ書に約束されていた言葉。
つまり、このヨハネの誕生によって、旧約と新約は繋がるのです。
旧約聖書の最後の時代。ちっとも神の働きなどない。わからない。そんなむなしい形だけの信仰生活。感動もない、決められた儀式を守る日々であった。
喜びも感動もなく、ただ、昔からの言い伝えを守れと、律法主義によって、傷つけあっていたユダヤの民に、
神さまの御心に立ち返りなさいと、悔い改めを語るバプテスマのヨハネが生まれた。それは、待ち望んでいた、神の働き。
そのヨハネは、保守的な祭司から、ザカリアの子として生まれる。
ザカリアが、この神の出来事を、すぐに受け入れられないのは、ある意味、当然です。
もう自分も妻も、年であるのに、なぜそんなことが起こるでしょうと、ザカリヤは言います。当然です。
それはわたしたちも同じでしょう。
自分が神を信じて生きてきた人生の中で、今まで、そんなことは起こったことがなかった。
長く、礼拝生活を、信仰生活を守ってきたけれども、そんな想定外のことはなかった。
わたしたちも、ザカリアの立場だったら、そういうかもしれません。
礼拝の中で、神の語りかけを聞いて、今は、モーセやイザヤの時代じゃないのだと、
自分の人生も、この世界も、このまま、なにも変わることなどないのだと、そんな思いが口をついてでるかもしれません。
神さまは、そんなザカリアの口を、しばらくの間、閉じてしまわれたのです。ザカリアは、口が聞けなくなります。
黙らせられるのです。黙って、神の業が実現するのを待てとばかりに・・・・
自分が喋るのをやめさせられ、ただ神の言葉に聞いて、
こころ静めて祈り続ける10カ月を、ザカリアはもつことになるのです。
沈黙して主に向かう時間。その大切さを、聖書は随所で語っています。
詩篇
62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
預言者サムエルは、神に召されたとき、「僕は聞きます、お話ください」といいました。
わたしが語るのをやめ、沈黙し、神の言葉だけに心を向ける。
そこに実現する出会いが、やがて実っていく神の出来事が、あるのではないでしょうか。
自分ではどうにもならない出来事、恐れや不安のなかでこそ、静まって、神の語りかけに開き、祈り続けなければならない時が、
あるのではないでしょうか。
それは、わたしたちの思いや願いを超えた、神のよい業が、救いがなされていくために。
先日、Nさんが、マザーテレサのこんな素敵なことばを教えてくださいました。
沈黙の実りは祈り、
祈りの実りは信仰、
信仰の実りは愛、
愛の実りは奉仕、
奉仕の実りは平和
この言葉をマザーテレサは、自分の名刺に書きこんで、出会う人たちすべてに配っていたのだそうです。
この言葉が自分たちの活動のすべてを説明してくれる、一番いい自己紹介なのだと。
祈りが神との対話なら、沈黙は、祈りの前提条件です。自分が話し続けていては、相手の声は聞こえません。祈りも同じです。
沈黙は、神との出会いの中で、ただの沈黙から、祈りへと、賛美へと変えられていくのです。
ゼカリアは、ヨハネが生まれ、口が癒され、話せるようになった時、まず最初に口からついて出たのは、神への賛美でした。
神の言葉を信じられずにつぶやいた彼の口から、
神を賛美する言葉があふれだす、新しいザカリアへと生まれるまで、
10か月の沈黙と祈りを、神は恵みとして、ザカリアに与えたのです。
やがて賛美へと至る沈黙を。
今、わたしたちも、自分ではどうにもならない恐れや不安を前に、沈黙させられることがあるなら、
その沈黙を恐れることはないのです。じたばたしなくてもいいのです。
やがて神の時に、神の救いが実現することを
わたしたちは、黙して待てばいいのです。
祈りましょう。