「海難1890」を観て

 
前半は、後のトルコ共和国オスマン帝国の親善使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が台風のなか座礁、大破した出来事。

海に投げ出された乗組員の500名以上が命を落とす中、島に流れ着いた乗組員の究明の救助に尽くした、貧しい漁師たちと元紀州藩士の医師田村元貞、その助手ハルたちの姿が描かれます。

 漁師たちにとって、国籍、人種の違いなど越えて、海で遭難した人を助けるのは、当然のこと。そんな素朴さに感動し、よきサマリア人の例え話を思い出しました。

そして後半、場面は一転し、95年後の1985年。イラン・イラク戦争の時代に。

イラクによる空爆を受けるイランにおいて、在イランの他国人が、それぞれ自国の旅客機などで出国するなか、日本人を乗せてくれる飛行機がなく、日本からも救援機が飛ばない状況。

取り残された200人あまりの日本人の救出を要請されたトルコ政府が、2機旅客機をイランにとばし、自国民に優先して日本人を搭乗させて救出してくれた出来事。

そのトルコ政府の行動の背後には、かつてのエルトゥールル号の出来事も無関係ではなかったように、映画では描かれていました。

でも、これは、そういう恩返しの物語にしないほうがいい気がするし、

実際、そういうことじゃなかったでしょう。95年も昔の話なのだから。

「自分たちも大変なときに、なぜ自分たちよりも、あなたたちを助けなければならないのか?」

この問いに、「昔の恩があるから」という話ではなくて、

「ただ、そうせずにはいられなかったから」

で、いいんです。

あの貧しい漁師たちのように。あの「よいサマリア人」のように

人間の中には、そのような神の似姿、あわれみの心が、隠されている・・・

ということこそが、

この世界の希望になるのだから。