「愛には恐れがない」(2015年10月18日花小金井キリスト教会夕礼拝)

shuichifujii2015-10-19

ヨハネの手紙1 4章13節〜21節


今日の朝は、天に召された方々を覚えて、礼拝を捧げました。
天に召された方々の写真を玄関に飾らせていただきましたけれども、写真を見ると、その方と歩んだ日々が、出来事が、懐かしく思いだされるものですね。
ある姉妹は、お母さまの写真を持ってきてくださいましたけれども、その写真を家では、飾れないのだそうです。まだ涙が出てしまうのだそうです。

人生は旅ですね。様々な出会いと経験を重ねて、やがて天に招かれていく旅。

 みなさんは、車で長い旅をしたことがあるでしょうか。
高速道路を走り、国道を走る。そして地方の国道沿いには、疲れをいやしてくれる道の駅が、ところどころにあります。
 山形の酒田にいたとき、ある日曜日の礼拝に、壮年の方が来たことがあります。不思議なことに、ママチャリに乗ってきたのですが、礼拝後に話を聞いてみると、九州から自転車に乗ってきたのだというのです。事情があって秋田の知り合いのところに行く途中だといいました。
 ママチャリに乗って、です。驚きました。途中の道の駅で、寝泊まりしたのだそうです。教会という場所は、神さまによって、実に様々な方と出会わせていただきます。
 人生を旅にたとえる人がいます。この地上の人生は、天に向かう旅路。そうであるなら、その旅路の途中で疲れ果てないために、人生の旅の道の駅として、わたしたちは週に一日を安息日として、ひたすら前に進む日々からときはなたれて、そんな一人ひとりが、命の源である神さまを求めて、魂の休息と、そしてまた新たな旅を続けていくための、神の愛の御言葉というエネルギーを、魂の糧、荒野に与えられる、マナを、魂の内に蓄えるために、礼拝に集う。

そんな礼拝というもののイメージを、 先日、ある心疲れて苦しんでいる方とお話している時、分かち合わせていただきました。


 牧師として、様々な方々と出会い、悩みや苦しみの言葉を聞き、いつも思わされることは、牧師というものの無力さです。

 様々な課題、問題。苦しみ、悲しみ。その重荷を抱えて、天に向かう地上の人生の旅を生きていかなければならない、1人1人。その旅路の前に立ちはだかる具体的な課題、問題。それさえなければと、取りのけたい苦しみ。こうなってほしかったのに、そうならなかったという、悲しみ。そういう具体的な目の前の問題を聞きながら、牧師はそういう具体的な課題や問題を解決するには、あまりにも無力。いや、そもそも牧師は病気に対応する医者でも、訴訟問題に対応する弁護士でも、社会福祉にかかわるソーシャルワーカーでもないからです。

ですから、そういう具体的な問題、課題に対する、解決能力については、無力と言わざるを得ません。

しかし、わたしが話を聞いたり関わった方々との、小さな経験から言えることは、こうなのです。

それは、目の前の課題、問題の解決や、状況が変わる、ということを願うことに、心が縛られていることこそが、実は、その人の抱えている、苦しみの本質なんじゃないか。

その人が、望んでいることと、その人が必要としていることの違いに気づくこと。本当は自分は、心の底で、何を求めているのか。そのことに気づいていくとき、なにも具体的な課題も問題も解決しないままに、状況が変わらないままに、苦しみから開放されていく、ということがある。

縛られた心が自由になっていく。そんな方との出会いを、この花小金井教会に来て数か月ですけれども、何人かの方と、そういう出会いの体験をさせていただいています。

人が、その心の底、魂が求めているもの。

それは愛。神の愛です。



もし、今、ここにおられるお一人お一人が、16節の言葉を、ご自分の心からの信仰の告白として、アーメン、その通りですと告白できるなら、その方は、実に幸いな人です。

16節
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。


「わたしたち」というところを、「わたし」と言いかえてみましょう。

わたしは、わたしに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。

わたしは、わたしに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。


わたしは、ほかでもない、わたしに対する神の愛を知っています。
そして、信じています。

「神の愛」といっても、それはなにも実態のない、フワフワしたあまい感情をイメージするだけの、空虚な言葉遊びのことではありません。

先週のメッセージで語らせていただいたように、神は「わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛が」あるのです。

わたしの罪を償ういけにえ、犠牲、苦しみを背負う、神の御子イエスさま。

そこに神の愛がある。罪とは愛の欠如にほかならないから。

罪とは、神に愛されている自分自身を、神に愛されているあなたの価値を、存在を否定してやまない、愛が欠如し、穴があいてしまったような、全てを飲みこみ滅ぼしてやまない、愛のブラックホールのようなものだから。

その愛の巨大なブラックホールを埋めることができるほどの愛は、神ご自身が、その穴に飛び込む以外にはないという、その出来事が、罪を償ういけにえとしての、イエスさまの命をささげた十字架であった。

それは、ほかでもない、わたしへの神の愛、わたしたちへの神の愛。

それを知り、信じ、信頼している人は、幸いです。

主イエスの十字架が、自分自身への神の愛の出来事であると知り、信じ、信頼する人は、幸いです。


先週映画を観たのです。「パパが遺した物語」という映画です。


主人公は、家庭に問題をもつ子どもたちへの、ケアをしているソーシャルワーカの女性ケイティ。「アマンダセイフレイド」が演じていました。

彼女が幼いころ、両親と彼女がのった自動車が事故にあって、母が亡くなり、父と娘だけの生活を送ったわけです。このパパ役が「ラッセルクロウ」

父は有名な作家。しかし、事故の後遺症で、脳に障害が残り、時折けいれんの発作が襲うのです。その発作状態のラッセルクロウの演技が迫真の演技なんですね。彼は、映画、ビューティフルマインドで、統合失調症の主人公の時も迫真の演技でした。まあ、いいんですけど。そのパパが、後遺症を隠しながら、娘との生活を経済的に成り立たせるために、体に無理をして小説を書き続けたために、彼女が8歳の時に、父は発作で天に召されてしまうのです。父と娘のことをつづった小説を残して。

その幼少時代のストーリーと20年後、大人になった彼女が、愛を失うことを恐れて、無軌道に男性と関係していく生活とが、オーバーラッピングしていくんですね。

幼少時代に、母を失い、唯一、自分を愛し育ててくれた父さえも、失った彼女の、愛を喪失することの恐れと虚無感が、彼女に罪を犯させていくんです。

愛を失う恐れ、人の変わりゆく愛に対する、不安、虚無が、自分や他者を傷つけていく罪の行動へと駆り立てていく。

わたしはそこに、変わることのない愛を求めてやまない、人間の魂の叫びを、思わされ、映画を見ながらせつなさを感じたのでした。

自分を愛してくれた、理想的なパパは、もういない。唯一パパが遺してくれた、父と娘という小説が、彼女の心の支えであり、自分は愛されていたという、誇りでもあった。


これはまさに、天のパパの愛、変わることのない神の愛をしたい求め、天のパパの遺してくれた愛の物語、主イエスの十字架の物語を、自分自身への愛と信じ、わたしは、今、神に愛されている神の子ですと、強く生きていこう願う、わたしたちへの物語なんじゃないですか。

福音とは、神はあなたのためなら、命を捨てても構わないと、十字架についたお方の、物語。神の愛のストーリだから。

この神の愛こそが、決して変わることも、失うこともない、わたしたちを恐れから解き放つ、神の愛だから。

ヨハネはこう宣言します。

4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

限りある人間の、不完全な愛。変わりゆく愛。不安定な愛は、いつか失う恐れと隣り合わせのあい。

しかし、完全な愛、変わることのない愛、神の愛に信頼するとき、恐れは締め出されていくのです。

わたしたちは、こうして日曜日の夜、疲れた体を教会に運び、礼拝をするのは、

そうしないと、悪いことが起こるという恐れとか、人の目を気にする恐れとか、そういう恐れが動機になって、神を愛そうと礼拝するわけがなく、

19節

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったから」に他ならないのです。

「神がまずわたしたちを愛してくださった」

この言葉にすればひと言にしかならないこと。しかしここに福音の真理。人が本質的に求めてやまない神の愛の本質がある。

「神がまずわたしたちを愛してくださった」

本当に、その通りです。アーメンと、もし言うことができるなら、それはまさに神業。神の霊の働きです。

13節

「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。

神の霊。聖霊が、分け与えられている。牧師だけではない。「神がまずわたしたちを愛してくださった」と言えるすべての人のなかに、
「イエスが神の子であることを公に言い表す」人のなかに、神の霊。神の愛を悟らせてくださり、神の愛を注いでくださる聖霊が、与えられているはずです。

自分に分け与えられている、聖霊に心を開くなら、

20節で言われているような

「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む

ということから、解放されていくでしょう。なぜなら、その兄弟、姉妹のなかにも同じ聖霊が分け与えられているのですから。

互いに「神がまずわたしたちを愛してくださった」ことを喜びあえる、兄弟姉妹ほど、貴重な宝はないのだから。

目に見えない神の愛が、確かに目に見える形で、目の前のあの兄弟を、姉妹を生かしている。

その目に見えない神の愛の、目に見える証。それが教会につどう、1人1人ならば、

「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」とヨハネがいうのは、まさにそうなのです。

神がまずわたしたちを愛してくださった。神の霊を分け与え、愛を注いでくださった。
決して失うことのない愛の、その源泉を、与えてくださった。

ならば、

21 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟

そうせずにはいられなくさせる、神の霊、神の命に押し出されて愛を分かち合う掟に、いきていくのです。

祈りましょう。