フィリピの信徒への手紙3章12節〜4章1節
今日の礼拝は、召天者記念礼拝として捧げられています。
今日、初めて教会の礼拝に来てくださった方もおられるでしょうから、すこしだけご説明いたしますと、
「召天者」とは、天に召された者という意味です。
今、地上に生きているわたしたちと、かつて共に地上の旅路を歩み、
今は、天に招かれ、召されていった、愛する方々を覚えて捧げられる礼拝。
いやむしろ、今はみえずとも、その愛する方々も一緒になって、天と地を造られた神を、わたしたちは礼拝している。そのことを覚えて、捧げる礼拝です。
今日は、週報と共に、お手元に、名簿をお配りしています。特に、わたしたちのつながりの中で、覚えたい方々のお名前を載せさせていただきました。
もちろん、ここにお名前は載らなくても、それぞれに、今は天におられる愛する方を、心に覚えてくださればと、思います。
今日は、お一人お一人のお名前を、読みあげることはできませんけれども、
名簿のお名前をみて、また、心の中で覚えておられる、愛する方々のお名前を思うとき、
きっと、その方々と歩まれた日々が、思い出が思いだされるのではないでしょうか。
お一人お一人の人生。天に向かって歩んでいった、地上の旅路。
それは、先ほど読んでいただいた、使徒パウロの言葉でいうならば、
「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、地上の人生を歩んでいかれた、愛するその人との、出会い、そしてその日々を与えてくださった、神さまへの感謝となるでしょう。
また、その方々と、別れなければならなかった悲しみも、痛みの時も、
今思えば、あの涙の時さえも、使徒パウロが言うところの、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」くださる、目標に向けて走り抜いた、光栄ある、喜びの時だったのだ、ということを、心静かに受けとめる時。
それは、同時に、今、ここにいるわたしたち全ての人が、やがて、その光栄ある、神の招きに与って、天へと旅立っていくことを、思う時であり、
やがて、この名簿に名前が記されていくことを、悲しみではなく、喜びと希望として、共に、天を見上げることを、意味しているのです。
ですから、今、わたしたちは、先に召された方を覚えながら、その方々の「供養」をしているのでも、「冥福」を祈ろうとしているのでもないのです。
「冥福」を祈るとは、死後の幸福を祈るということだからです。それでは今、亡くなった方々は、幸せではない、ということになってしまいます。
今、地上を生きているわたしたちの方が、幸せであり、先に召された方がたは、わたしたちが覚えて、祈らなければ、死後の世界で苦しんでいるという、そんな話になってしまいます。
それが死後の世界であるとするならば、わたしたちは、そこに向かって、今日を生きる、希望や、勇気を失ってしまいます。
彼は言います「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けるのだ」と
「神がキリストイエスによって、上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走っているのだ」と
彼はこの時、すでに歳を重ね、高齢の身でした。そのうえ、伝道活動のゆえ迫害され、投獄の身となっていたのです。
彼の人生は、困難、苦しみ、悲しみの多い歩みでした。そして高齢になり、人生最後を目の前にした、この時でさえ、牢獄の中で、身動きのできない状態におかれ、苦しんでいたのです。
わたしたちの人生も、パウロほどではないとしても、地上の人生を生きることは、幾多の悲しみ、苦しみを経験しつつ、歩む旅路でしょう。
最後には病気によって、パウロが牢獄で身動き取れなかったように、なにもできなくされてしまう、ということが、わたしたちにもあるかもしれません。
しかし、その身動きとれないなかにあって、パウロは、このように仲間にあてた手紙に書いたのです。
「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走っている」と。
なにが出来ようと、なにもできなくなろうと、わたしたちの地上の人生は、天に向かってひた走っている人生。
わたしたちもパウロ同様、今、地上の人生とは、天というゴールに向かうプロセスであるのです。
ですから、わたしたちもパウロが言うように、「わたしたちの本国は天にあります」と告白します。
その天にこそ、地上で流された、すべての涙がぬぐわれる本当の「幸い」がある。
主イエスと共にある「幸い」がある。それこそが、今、先に召された方々の味わっている「幸い」
ですから、今はまだ、この地上の旅路で、苦労しながら歩んでいるわたしたちが、
先に天に召された方々のために、幸いを祈る。冥福を祈るということではないのです。
むしろ反対に、今、この地上の旅路をあえぎながら歩いている、わたしたちを、
どうか、最後の最後まで、支えてくださいますようにと、先に召された方々の歩みを覚えて、
神さまに、恵みを憐れみを求めて祈るためでしょう。
やがて、地上の歩みを終え、この名簿にわたしたちも名前が載る日に、
詩篇の100編が歌うように、
「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入」ることができるように、
先に召された人々を導いた神さまが、わたしたちをも導いてくださいと、
今日、新たに、天地を造られた神を見上げ、神の愛を信じ、神との交わりを、さらに深めたいのです。
信仰とは、神様との交わりに生きることだからです。
パウロは言います。
「わたしはすでに完全なものになっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです」と
わたしたちが、自分を打ちたたき、修行をし、心頭滅却(しんとうめっきゃく)して、悟りを得たり、恐れから解放される、という話しではないのです。
そうではなく、わたしたちが、今、どんなに汚れた人間であろうと、自分に対して、自分でさえ失望するようなものであろうと、
神は、わたしたちをとらえて離さない。自分が神を求めるより前に、キリストイエスが自分をとらえてくださっている。
この地上の人生を生きるようにと、命を与えた神の愛は、天に招きいれられる日まで、決して変わることがなく、わたしたちをとらえ続けている。
パウロという人は、その神の愛と恵み、福音を、イエスキリストの十字架の出来事なかに見出したのです。
このわたしの罪も汚れも、そのすべてを代わりにキリストが身に受け十字架についてくださった。
今、どんなにみじめでも、苦しくても、試練の中にあっても、この十字架ゆえに、神との交わりに生きる希望が、わたしには、あるのだ。
だから、今、高齢になり、牢獄に捕えられていても、この十字架のゆえに、わたしは、天に向かって走り続けていけるのだ。
パウロは、そんな自分に倣ってほしいと、いいました。
17節
「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」
どのような中におかれても、十字架のキリスト。神の愛と交わりのゆえに、後ろを振り返ることなく、天に向かって歩み抜いたパウロ。
そして、この地上の人生が、どのような終わり方であろうと、神の愛に、全てを委ね、先に、天に召されていった、愛するお一人お一人。
そのお一人お一人が、地上を生きる、わたしたちの模範です。
神の恵みにすべてを委ねたお一人お一人のように、わたしたちも神の愛に委ねることができますように。
その意味で、召天者記念礼拝は、召天者の方々のためというよりも、むしろ、召天者の方々の歩みに励まされ、今を生きる私たちが、神様との愛の交わりを深め、神に委ねていく歩みに、さらに導かれていく、時であります。
わたしたちが召天者の方を覚えているようでいて、むしろ、反対に、わたしたちのほうが、いつも、天において、覚えられていること、支えられていることに気づく。それが、この礼拝。
フィリピという場所は、ローマへの愛国心が強い都市だったのです。
彼らにとって「本国」といえば、「ローマ」。強大な軍事力、経済力、あらゆる力を誇るローマ。
この地上の力の象徴。ローマ。それが本国だ。ローマに国籍がある。ローマに属している。
それが誇りでさえあった、フィリピの人々のただなかで、イエスキリストを信じた人々に、
パウロは宣言します。いや、わたしたちの本国は、ローマではなく、天であると。
目の前の繁栄、力あるローマがいかに魅力的に見えようとも、
わたしたちは、ローマにではなく、天につながり、天が本国なのだとパウロは言います。
ではいったいその「天」とは、何なのでしょう。私たちが勝手にイメージしている、「天国」とか「極楽」といわれる、死んだあとにいく、場所のことなのでしょうか。
この宇宙の、はるかかなたに、そういう場所がある、ということなのでしょうか。
いったい「天」とはなんなのでしょう。これは言葉で説明出来ることではありません。
言葉で、これが「天」ですと、表現できるようなものではありません。
ただ、そういう言葉の限界を承知の上で、あえて「天」について語るとするなら、イエスさまがおしえてくださった、主の祈りが一つのヒントとなるでしょう。
主イエスは教えてくださいました。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るようにと。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」
イエスさまは、「天」とは、神のみこころが、なっている。実現しているところであると、言われたのです。
そして、使徒パウロは、今日の聖書のなかで、やがて「天」から「主イエス・キリストが救い主としてこられるのを、わたしたちは待っています」とも言いました。
「天」。それは、復活した主イエスがおられ、神のみこころがおこなわれているところ、ということは言えるでしょう。
十字架のあと、復活した主イエスが、弟子たちの隠れていた家に、すっとはいってこられたという出来事が、福音書に書かれています。
主イエスがおられるところ。それは、この宇宙のはるかかなたというより、むしろ時や場所に縛られないのかもしれません。
ただ、わたしたちには認識できない、次元。そこに主イエスはおられ、「天」といわれるものもあるのかもしれません。
そうならば、天とは、意外とすぐそばにあるのかもしれません。それはわかりません。ただ神の御心が実現しているところ。主イエスがおられるところが、天なのです。
さてパウロは21節で言う言葉に、耳を傾けてみます。
やがて、その天から主イエスは来られ、「万物を支配下に置くことのできる、力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」
そうパウロは言いました。このことをわたしたちは、完全には理解できません。分かりません。
ただ一ついえることは、天とは、どうやらわたしたちが勝手に想像している、魂だけがいく場所、ではないらしい。
そうではなく、わたしたちの今ある体が、滅びゆく限界ある体が、復活の主イエスと同じ、栄光ある体と変えられるところらしい。
これは、わたしたちには想像もできないことです。イメージすることさえ難しいことです。
しかし、わたしたちが想像できないからと言って、それがないとはいえません。
わたしは、あの青虫が蝶に変わる不思議な出来事を通して、神さまはそのことを教えてくださっているのではないかと、思うことがあります。
青虫が生きている世界は、地面を這いつくばり、葉っぱを食べる世界です。青虫に見えるもの、認識できるものは、目の前のことだけです。葉っぱを食べることだけです。それが自分が生きる目的、この世界のすべてだと、青虫はいきているでしょう。
しかし時が来て、さなぎになり、蝶として新しく生まれ、空に羽ばたく時、青虫は悟るのです。
ああ、青虫だった時には、前の前のことしか見えなかった、認識できなかった。でもなんとこの世界の素晴らしいことかと。
青虫の時には、逆立ちしても見えなかった世界を、上から全てを身通す「蝶」となって、青虫は見ることになる。
世界が変わったのではないのです。そうではなく、見えていなかったもの、認識できなかったものが、見えるようになったのです。
わたしたちも、今、青虫のように、目の前にあるものがすべてだと、生きているのではないでしょうか。お金、健康、仕事、様々な不安と恐れで、思い悩んでいるのではないですか。
この社会は、世界はどうなってしまうのだろうと、不安になることがあるのではないですか。
しかしやがて、地上を這いつくばって生きていた命とは、全く次元が違う命。新しい体に復活させられるとき、「蝶」のように舞いあがる時、わたしたちは全てを悟るでしょう。
それは、どこか遠くの、宇宙のかなたの天に行ってしまう、という話しではなく、
ただ、青虫の時には見えなかった、認識できなかったすぐそこに、主イエスがおられる、天のあることを、悟るでしょう。
先に召された愛する人々のおられる、天があることを、悟るでしょう。
神の時が来たら、キリストが救い主としてこられて、青虫のわたしたちは、天に舞い上がる蝶となる。
それがどのようなものなのか、今、青虫の世界を生きる私たちには、わからないし、わからなくてもいい。
ただ、わたしたちの地上の人生は、ただ、青虫として生まれて、青虫として終わるのではないことを。
私たちが今、この苦労の多い人生を、地に這いつくばって生きる日々を生きるのは、
青虫として終わるためではなく、美しい蝶として、復活の体となって、天に舞いあがるのだと、信じるだけでいいのです。
わたしたちは、19節でパウロが嘆いているような、「この世のことしか考えていない」人ではないからです。
たとえ地上の人生の時間が、短かくても、長くても、関係なく、わたしたちが生かされた人生は、
神の御心が天でおこなれているように、地にも行われるために、生かされた人生だから。
わたしたちの本国は天なのですから。わたしたちは、その天から今、神の愛と恵みを分かち合ようにと、一時この地上に遣わされた、
天を本国とする、命なのですから。
今日、召天者記念礼拝に集うわたしたちは、その神の愛と恵みを分かち合ってくださった、先輩方を覚えて、神をたたえています。
なによりも、天から遣わされ、本国を天にもつ方として、この地上を生きてくださった、イエスさまのことを
わたしたちは毎週思い起こすために、礼拝を捧げ続けます。
その意味では、毎週が、召天者記念礼拝。
天に本国をもつ者同士の、喜び希望の礼拝です。
さあ、ここからまた、天に向かう旅路を、心新たに、歩みだしていきましょう。