わたしが牧師をしている理由

 人と人とが信頼し合い、繋がりあい、助け合い、協力し合うことほど、尊いことはないです。
そのことのために、人と人は結婚し、家庭をつくり、社会をつくるし、結婚してもしなくても、人は誰かとともに生きていくものだから。
すべての人が、一番身近な人との信頼関係を大切にするために、一歩踏み出したら、この社会全体が良い方向に向かうと信じているんです。
お金も仕事も、そのためにあるのであって、それ自体が目的じゃないはず
お金や仕事のために、互いに攻撃しあい、足を引っ張り合い、疲弊していくのは、むなしいはなし。
互いに信頼しあい、協力して価値あるものを生み出していくほうが、良いに決まっている。
信頼関係を壊すのは簡単。
でも、信頼しあえる関係を広げ、互いに繋がり協力し合う仲間をつくるのは、
地道な忍耐の道
互いの違いを喜んで、共に生きていくための、コミュニケーションを積み重ねていくしかない
自分も相手も、神がつくられた最高の価値ある存在であることを信じて
それは、夫婦の間でも、国と国との間でも、規模は違っても本質は同じはず
「日本を取り戻す」とか「自分の誇りを取り戻す」という発想は、
自分はだめだ、自分たちはだめだという「劣等感」から出発していて、
それが他者への怒りへと転じ、
「おまえもだめだ」と、叫ばせることになる。
「あなたのここがだめだ、あそこもだめだ」、「この国のここがだめだ、あそこもだめだ」
そうやって相手の足を引っ張らせるところに、信頼関係などつくれない。
自分もあなたも、
じぶんたちも、あなたたちも、
この国もあの国も、
神がつくった、最高の価値ある存在と信じるところから始めて、
「性格が不一致なんです」なんて「だめだし」しないで、
互いに違うからいいよねって、互いの存在を喜びあって、
なお繋がりあい、助け合い、協力し合っていくコミュニケーションを積み上げていく。
それが結局、無益な足の引っ張り合いをやめて、
互いが豊かに活かされていく道なのだから
今日、すこしでも、新らしい信頼と、繋がりあう関係が、広がりますように。
約2000年の昔
人間の身勝手な「だめだし」を、すべて身に受けられ、
神の子イエスは、十字架につけられ葬られ、
3日目の朝、
その「だめだし」のすべてを、神はひっくり返し、イエスを復活させた。
もう、どんなに人が「だめ」だと思っても、「だめ」じゃなくなった。神がそうなさった。
それが、復活。
だから、もう、お互いに「あなたはだめだ」と「だめだし」しなくてよくなった。解放された。
わたしも、あなたも、
あの人たちも、この人たちも、
あの国もこの国も、
みんな神に愛され、
神がつくられた最高に価値ある存在だといっていい。
エスが復活したから。
だから、互いに信頼しあい、繋がりあおう。
支え合おう、協力し合おう。一緒に生きよう。
きっと、その先に素晴らしいことが待っている。
そんな希望に生きる道へと、約2000年前に、この世界は開かれました。
エスさまを復活させた神は、
今も、わたしたちが互いに信頼しあい、繋がりあえるように、働いてくださっています。
という喜びの知らせが、福音。
この福音を伝えて、
神に愛されつくられた、自分と相手の価値に気付いた人々が、
一緒に生きている平和な現場を、
もっとみたい、その喜びを 味わいたい、体験したい。
福音によって、互いに助け合い、新しいよいものを生み出している現場を、
もっとみたい、その喜びを 味わいたい、体験したい。
それがきっと、わたしが牧師をしている理由なのだと、思うんです。