「イエスと共に働く」(1月10日 花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書9章1節〜17節

 明日は成人の日ですから、今日の午後、成人のお祝いをする予定だったのです。
 でも、今年、二十歳を迎える青年が、たまたまいないのです。
 実はいたのですけど、U教会に転会されたので、きっと、そちらで今、お祝いしてもらっているはずです。
ということで、わたしたちの教会では、午後の祝会はありませんけれども、この後、報告の時に、20歳の青年を覚えて、祝福を祈りしましょう、ということになりました。

でも、どうなんでしょう。

20歳になったら、成人、大人ですよ。おめでとうといわれても、ある日を境に、急に、人は変わったりしませんし、中身はそのままじゃないですか。

成人になるとは、どういうことなんでしょう。お酒を飲んでも怒られなくなった。自分で自立して生活できるようになったということなんでしょうかね。

自立といっても、むしろ年を重ねるうちに、人間最後には、体も弱くなりますし、自立どころか、むしろ赤ちゃんに戻っていくわけですから、

成人というのは、「自分の力で生きられるようになる」という話ではなくて、

むしろ、自分は一人ではいきられないことを、ちゃんとわきまえ、神様と人と、共に生きる人になっていく、ということじゃないでしょうか。

だれにも頼らず一人で生きてきた、という思い上がりが砕かれ、

自分を生かしてくださっている、天の親に頭を下げ、隣の人と共に生きる人となっていく。

そう、主イエスのようになっていく。

主イエスこそ、まことの成人。本当の人となられた神ですから。

わたしたちは、神の霊に導かれて、イエス様に似るものに成長して、

やがて天に行ったら、天の親から、「まあ、あなたもりっぱになったねぇ」と成人のお祝いをしていただくのではないですか。

その日を目指して、今日も、主イエスの言葉をいただき、主の後に付いていく弟子として、わたしたちは、礼拝をささげます。


さて、今日朗読された御言葉は、主イエスの弟子たちの成長を願って、主がチャレンジなさった、使命を与え、町や村に遣わされた出来事でした。

1節からもう一度お読みします。

「イエスは12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた・・・」

この「悪霊に打ち勝ち、病気を癒し、神の国を宣べ伝える」

これは、それまでは、主イエスがしておられたことなのです。

人々に福音を語ることも、癒すことも、たとえば、先週の礼拝で読んだ個所は、12年の病にあった女性を癒し、亡くなった女の子を、主が蘇生なさった出来事でした。

「悪霊に打ち勝つ」ということも、主イエスがなさっていたこと。たとえば、悪い霊にとりつかれていたマグダラのマリアを、自由になさったのも主イエスでした。

弟子たちがしたのではないのです。弟子たちは、それをしておられる主イエスを、そばで見ていただけです。

ところが、ここにおいて主イエスは、いままで、ご自分がしておられたことを、あなたがたもしなさいと、その権能をお授けになり、町や村に遣わされた、というのです。

これは驚きです。今や、弟子たちは、主イエスのお供でも、先遣隊でもない。主イエスそのものとなっているんです。

主イエスになりかわって、働くために遣わされたのです。

神の国を宣べ伝える、伝道。

病の人をいやす奉仕。現代でいえば、悩みの中にある方々を支え、仕える働き。

そしてこれは、今に至るまで、「教会」がしてきたこと。

時代をこえて、主イエスの弟子たち、つまりわたしたちもまた、

その時代に、主イエスになりかわって、主イエスと同じ働きをするのです。


弟子たちは、このあと主イエスを見捨てて逃げてしまうなど、罪深く、失敗だらけであるけれども、

しかし、主は、大丈夫だ、あなたたちに、わたしと同じ働きを託す。そのための、権能を授けるといって、送り出してくださるイエス様。

今わたしたちにも、こんなわたしたちに、何ができるのだろうか、大丈夫なのかと、恐れているとしても、

主イエスが、わたしの働きをするようにと、権能を授けてくださったのなら、大丈夫。

神の国を宣べ伝え、悩みの中にいる人々に、仕えていけるのです。

この時代、悪い思い、ネガティブな思い、そういう霊に、心縛られている人を、解放する福音を、伝えることが、わたしたちにもできるのです。



最近も、人の言葉が気になって、自分に自信が持てないまま、不安と恐れを訴えて何度も電話をくださる方がおられて、

でも、わたしは、カウンセラーではなくて、牧師ですから、話を聞くだけではなくて、福音を語るのです。

大丈夫。人がなんと言おうが、あなたは神様に望まれて生まれてきて、今まで生かされてきている。愛されているんだよ。だから大丈夫。

そう自分でも、自分に言い聞かせてくださいと、申し上げると、ホッとしてくださる。

また、不安が襲ってくるでしょう。そのたびに、福音を聞くのです。福音こそ、わたしたちの心を縛る、悪い霊から解放する神の力だから。

この世界に、神の国はやってきている。神の支配。それはまだ小さなからし種のようかもしれないけれども、ちゃんと神の、愛の支配はやってきている。

それを、信じましょう。大丈夫。そう伝える人も、まず、その神の支配を信じるようにと、主イエスは、弟子たちにこう語ります。

3節「次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』


なにも持たずに出かけなさい。言い換えれば、神の国、神の支配を信じる人として、あなたがまず、生きてみなさいということです。

旅に出かけるのに、必要なもの、お金さえなにも持たない。

それは一見、無茶な要求のような気がします。まるで、上から食べ物が降ってくることを期待していきて行けという、話だと思うでしょう。

でも、そうではないのです。4節にはこうあります。

「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい」4節

そうなのです。上から何か降ってくるのを待つのではなく、どこかの家に入るのです。
そこで、人を通して、神の支えを体験するのです。

旅をするのに、何も持たないということは、一人でがんばって、だれにも頼らず、神を信じて生き延びろ、という話ではないのです。

そうではなく、神は「どこかの家」を通して、神の国を伝えるあなたを、ちゃんと支えるから、そこにとどまって、そこを拠点として、また旅をしなさい、働きなさいということなのです。

開拓伝道をしてみるとわかりますけれども、そこには、助けてくれる人、受け入れてくれる人というものが、いるものだし、そういう助けのなかに、まさに神の国というものを、神の愛の支配というものを、体験すればするほど、

この福音は本物だ、神の愛は本物だという、確信をいただくことができるものなんです。


でも、一方でイエス様は、こういうことも言われますね。

「だれもあなた方を迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証として足についた埃を払い落としなさい」5節

これはつまり、だれも迎え入れてくれない。家に入れてもくれない。助けてもくれない場所に、頑張ってとどまらなくてもいいということでしょう。そこで飢え死にしてでも、神の助けを信じて、がんばれという話ではないのです。

そういうところからは、出ていきなさい。出て行っていいよ。そこは、神の国、神の支配を、受け入れる時が、まだきていないのだから。その土地でついた塵を、払い落として、新たな気持ちで、新しい土地に行けばいい。そこに、新しい出来事が待っているはずだ。

そういう話ではないですか。あくまでも、これは弟子たちが、神の国を、神の支配と守り、愛を体験するために、主イエスがつかわしてくださる、訓練なのですから。

神を信じていきる、成人、大人へと、さらに成長するために、そのプロセスとして、弟子たちは、やってごらんと、遣わされていく。

わたしも、主イエスから、やってごらんと、花小金井の牧師の働きへのチャレンジをいただいて、今ここに立っていますし、今日の午後、選挙で選ばれる、新年度の執事の方々も、主イエスから、選ばれて、やってごらんと、声をかけてもらう、神の出来事でしょう。

それは、教会学校の働きも、各グループ、委員会の働きも、あらゆる奉仕は、みんなそう。

主イエスからやってごらん。「大丈夫、旅にはなにももっていかなくてもいいよ。自分の持ち物で頑張るわけじゃないから。ちゃんとわたしが、助ける家を、人を、備えておくから。やってごらん。チャレンジしてご覧。神の恵みと守りを、体験してごらん」という招きでしょう。

それは、主イエスを信じる、成人、大人に向かう、新しいチャレンジの歩み。

そういうわけで、午後の選挙で選ばれたら、この説教を思い出してくださいね。

あなたががんばる話じゃないんですよ。神の国、神の助けを体験出来ますから、大丈夫。

でも、どうにもならなくなったら、足の埃を払い落として、出ていってもいいんです。また、新しいところで、神の働きが待っている。

わたしも、そういう覚悟で、今、ここで牧師をしています。

申し上げたいことは、ひとつ。働くのは、あなたではなく、主イエスなんです。あなたのうちにおられ、あなたと共におられる、主イエスと、ともに働くことに、ただただ、信頼して、期待して、チャレンジしましょう。一度きりの人生なのだから、ということです。


今日の出来事の後半は、5000人の人に、食べ物を与えたという、有名な記事でした。


夜になって、イエス様の話を聞きに集まった大群衆を、弟子たちは解散させたかったのです。そうすれば、自分たちで村や里に行って宿をとって、自分たちで食べ物を見つけるでしょう。

そう弟子たちは思った。疲れもあったでしょう。もう群衆を解散させて、解放されたいという思いも当然あったでしょう。

ところがここでイエス様は、こう言い放ったのです。13節

「しかし、イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』」


そんなことできるわけがない。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかないんですよ」そう告げる弟子たち。


弟子たちもそう。そしてわたしたちもまた、今、自分が今、持っているもの。自分の力だけを見つめてしまうもの。


でも、弟子たちはこの時すでに、経験していたのです。かつて何も持たずに、ただ神の国を信じて、神の支配を信じて、出かけてみたら、ちゃんと神の守りと祝福を体験した。パンが5つ、さかな二匹どころか、一切、何一つ、もたずに旅に出たのに、ちゃんと神の守りがあって、家に招かれては、パンをいただいて、生きのびるためのパンは、今日まで、ちゃんと与えられた。だから今生きている。

その神の国の恵みを、神の愛の支配を、そのあなた方受け、体験してきた命のパンを、命の食べ物を、与えなさい。

あなた方はそれを食べてきたのだから。体験してきたのだから。だから、今、ここに生きているのだから。

それは、わたしたちもそうでしょう。今、生きているということは、神の恵みに、神のくださるパンに、食べ物に、生かされてきたということでしょう。今までも、今も、そしてこれからも。


この世界は、悪いものの支配ではなく、神の支配が始まっているのだ。その喜びを体験し、味わってきた弟子たちは、今度は「あなた方が」、これからどうしたらいいのかと、不安におびえている群衆を迎え入れて、神の国の喜びを分いなさいと、そういう奉仕へと招かれているのです。

その弟子たちの奉仕とは、具体的には、群衆を50人くらいの組に分けて、座らせること。そして、イエス様から受け取った食べ物を、分け与えることでした。

そして残ったパンくずを集めたのも、もちろん弟子たちだったはず。


決して派手な働きではないのです。悪霊に打ち勝つとか、病を癒すとか、そういう目立つことより、この地道な働きこそ、実に、実に意味深い。

この場所に、みんな、自分のことで精いっぱい。そんなバラバラに集まっていただけの、大群衆が、

この弟子たちの働きによって、小さな50人ほどのグループに分けられ、互いに顔と顔を合わせて、楽しく神の与えた食べ物を、分け合い喜ぶ仲間となったからです。

バラバラだった人々を、出会わせ、互いに喜びを分かち合う仲間を作る。実に尊い奉仕に、弟子たちは仕えているのです。

わたしたちの教会も50〜60人くらいの礼拝でしょう。そして、毎週、神の御言葉を共に食べ、喜びを分かち合っています。そのために、見えないところで、わたしたちの仲間の誰かが、このすべてを、準備し、祈り、イエス様から受け取ったパンを配り、そして、ひとつも無駄にしないようにと、残りくずを集めています。

ますます孤独と、格差が広がる、この不安な時代に。

その不安と恐れの中で苦しみ悩む、あの人に、

神の国の喜びと平安を、伝えたい一心で。

わたしたちは、主イエスのパンを、福音を配ります。顔と顔を合わせて、共に命のパンを食べあう、仲間を作るために。

主イエスが、やってごらんと、招いてくださるそのチャレンジに、ぶるぶると震えながら、わたしたちは、また新しい一歩を踏み出します。

一歩踏み出して、出会った人と、神の国の素晴らしさを、味わいあうことこそ、地上で生きる喜びだから。

わたしたちは、主の招きに応えて、今週も、一歩踏み出します。


しかし、今日の御言葉の個所では、そんな主イエスと、その弟子たちの働きに、領主ヘロデが戸惑った、と記されていました。

自分が支配している場所で、何が新しい出来事が起こっている。ヘロデは、主イエスと弟子たちの働きに、心騒がせたのです。

神の国。神の支配。神の新しい働きに、心騒ぐヘロデ。

自分に逆らうものを恐れ、暴力的にバプテスマのヨハネの首をはねた、ヘロデ。

ヘロデは、この主イエスに会ってみたいと願うのです。

そして、十字架につけられるために、とらえられた主イエスと、ヘロデは最後に、出会うのです。

ヘロデは思ったことでしょう。このイエスという男も、バプテスマのヨハネのように、恐れるほどのことのない、無力な男だったと。

ヘロデは安心したでしょう。

自分の国は、自分の支配は、これで安泰だと思ったことでしょう。

しかし、そのヘロデは死に、今やヘロデの支配など、影も形もないのです。

ヘロデという男も、ただいっとき、地面から舞い上がった、ちりにすぎません。

2000年の時を越え、今も広がる神の国、神の支配の前には、その時の権力者も、やがて払い落とされ、踏みつけられる、足のチリ。

それは、今の時代においても同じことです。

やがて実現する、神の国、神の支配の前に、時の権力者は、足のチリのように払い落とされるのです。

ですから、わたしたちは恐れません。今、いかに自分たちが小さく弱く思えても、

たった五つのパンと二匹の魚しか、持ち合わせていませんと、わたしたちは、なげいたり、失望したりいたしません。

わたしたちには、死の絶望から復活させられた、主イエスが共におられるからです。

わたしたちは、復活の主が、聖霊として宿られた、

主イエスと共に働く、仲間です。

さあ、神の愛の支配を信じて

ここから新しい一歩を、踏み出しましょう。