選ぶべき道が示されるとは

shuichifujii2014-12-09

「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう」(詩篇25編12節)

人生の道に時々に現れるわかれ道。

その手前で、どちらかを選ばなければならなくなった時

どちらがよりよい道なのか、人は迷い、あらゆる情報や自分や人の経験をあつめ、考え考え、よりよい道を選ぼうとするものです

でも、道の手前でいくら情報を集め考えてたとしても、結局は、道の先に歩いていかなければ、そこに何があるかはわかりません。

どちらかの道を選び、歩み出すことで、道の先にあるものが、見えてくるのです。

すべての人は、主なる神さまに愛され、目的があってこの世界に生まれてきます。

主はわたしたちを愛し、常に導いています。

その「主を畏れる」とは、

あなたが、ちゃんと正しい道を選ぶかどうかテストしようとして、

わかれ道を用意し、間違えた道の先に落とし穴まで掘っている

意地の悪いお方を、恐れなさいよ、ということではないのです。

自分は愛され、主によって、目的をもってこの世界に今いきている。

その偉大なる神の神秘への、畏れであり、

ゆえに、どちらの道が正しくて、反対は間違っているという2元論ではなく、

どの道であろうと、主の愛も、目的も変わることはないという、

主の絶対的な愛に委ねて、

自分の心の奥底の言葉、思いに、

耳を傾け、正直にまっすぐに、道を選んでいくこと。

それが、主を畏れる人に、主が選ぶべき道を示されるということだと、わたしは理解するのです。