「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう」(詩篇25編12節)
人生の道に時々に現れるわかれ道。
その手前で、どちらかを選ばなければならなくなった時
どちらがよりよい道なのか、人は迷い、あらゆる情報や自分や人の経験をあつめ、考え考え、よりよい道を選ぼうとするものです
でも、道の手前でいくら情報を集め考えてたとしても、結局は、道の先に歩いていかなければ、そこに何があるかはわかりません。
どちらかの道を選び、歩み出すことで、道の先にあるものが、見えてくるのです。
すべての人は、主なる神さまに愛され、目的があってこの世界に生まれてきます。
主はわたしたちを愛し、常に導いています。
その「主を畏れる」とは、
あなたが、ちゃんと正しい道を選ぶかどうかテストしようとして、
わかれ道を用意し、間違えた道の先に落とし穴まで掘っている
意地の悪いお方を、恐れなさいよ、ということではないのです。
自分は愛され、主によって、目的をもってこの世界に今いきている。
その偉大なる神の神秘への、畏れであり、
ゆえに、どちらの道が正しくて、反対は間違っているという2元論ではなく、
どの道であろうと、主の愛も、目的も変わることはないという、
主の絶対的な愛に委ねて、
自分の心の奥底の言葉、思いに、
耳を傾け、正直にまっすぐに、道を選んでいくこと。
それが、主を畏れる人に、主が選ぶべき道を示されるということだと、わたしは理解するのです。