ルカによる福音書13章31節〜35節
先週の礼拝メッセージの中で、牧師になんでも伝えたいことがあったら、ロビーにコミュニケーションカードをおいたので書いてくださいね、とお願いしたら、早速数名の方が書いてくださって嬉しかったです。
なんだか、ラブレターをもらったら、こんな気持ちになるのなかと、わくわくしてしまいました。言葉に、励まされたり、気付かされたり、祈りに導かれました。感謝です。
同じ主を信じる人々のコミュニケーション。交わり。その信頼と愛に支えられた交わりの中にある、不思議な平安、人と人との平和を、教会というところは体験しますね。
8月になりましたけれども、毎年8月は、「平和」について、深く考え、祈るときを持ちます。あのような戦争の悲しみを、繰り返してはならないと、心新たにします。
そもそも人は、争うために生まれてくるはずがない。愛しあい、共に生きるために生まれてくるはずだ。それが神の愛を信じる、わたしたちの確信です。
すべての人は、無力な赤ちゃんとして生まれてくるでしょう。
そして、ただそこにいるだけで大切にされ、愛されるという経験を味わう。愛のコミュニケーションを体験する。そこには、愛される条件などないのです。
それこそ、天の親である神は、神の子を無条件に愛しておられる証。神の愛を、この地上で、わたしたちは無力な赤ちゃんとして、体験するわけです。
しかし残念ながら、この世界はまだ、神の国そのものではない。天の親の愛100%になっていない。神の愛の支配は、いまだいきわたってはいない。
愛に条件がつくのです。そのうち、能力や家柄や、年齢や、国籍や、そういうものが条件になって、愛されたり、愛されないという、条件付きの愛によって、心に傷を体験するようになるでしょう。
比べられ、優劣をつけたり、つけられたりするようになるでしょう。互いの存在のユニークさ、その存在の価値が、わからなくなったりするでしょう。
ただそこにいるだけで大切ないのち。私の目には、あなたは高価で尊いと言ってくださる、天の親の愛。
その愛の言葉も、心を開いて受け取られなければ、実らない、広がらない。
神の愛の言葉との交流。コミュニケーション。それを壊すのが、「罪」というもの。
ですから、「罪」の反対の言葉は、なんなのかといえば、「罰」ではないのです。「愛」なのです。
天の親が、無条件に愛し、この世界に産んでくださった。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」、「わたしはあなたを愛している」と語っておられる神の愛から、切り離れるなら、人は恐れに取りつかれるしかありません。
自分で自分の価値を、尊厳を守ろうとして、悪循環に陥るでしょう。
創世記の一番最初、3章で、神から離れる罪を犯した、アダムとイブが、真っ先に気づいたのは、なんだったかご存知ですか。
それは、自分たちが裸であることだったのです。それまで、赤ちゃんのようになにもまとわず、何も自分を飾ることも、鎧を着ることもない、無力なありのままの姿で、アダムもイブも、神の愛のなかを生きていた。それがエデンの園。
ところが、神から離れる罪を犯した時、なにがおこったか。彼らは自分たちが裸であることを恐れたのです。このままの自分ではだめだと、恐れ、自分で守らるのだと、いちじくの葉を綴り合せ、腰をおおったのです。
神から心が離れてしまう。神に愛されていることに心閉ざしてしまうなら、赤ちゃんがお母さんから離れてしまうように、人は恐れに取りつかれるでしょう。
やがて、恐れさせるものから、自分で自分を守るのだと、力を求め、敵を作り、さらに恐れを膨らましていくでしょう。
その悪循環はやがて、人の力を結集して天まで届くバベルの塔を作らせたと、創世記は、神から離れた人間の姿を、物語るのです。
神は、そんなバベルの塔の建設をやめさせ、人々の言葉を混乱させ、世界中に散らされた。
それはやがて、人間の作ったバベルの搭ではなく、人を造られた、神の愛にたちかえって、人々が一つになる、神の国に入ることこそが、人間にとって本当の救いになるのだから。
なにもできない無力な赤ちゃんを、ただそこにいるだけで、愛してやまない親のように、
天の親は、わたしたちがどのような人間であろうと、強くも弱くも国籍もなにも区別なく、神の子として愛してやまない天の親。
この天の親はいつも神の子を呼び、神の国へと集めている。天の親のもとに帰り、神の子が共にいきていく、神の国へと招いてくださっている。
なのに、罪に心縛られ、自分で自分を守るしかないと、自分の城を、バベルの塔を、力、権力に頼り、敵を恐れては、滅ぼすことに手を染めていく。
そんな罪に心縛られた人々が、聖書に沢山登場する、その一人が、
今日の、福音書に登場する、ヘロデです。当時のユダヤの王、ヘロデもまたそういう罪に縛られた人だった。
彼は、ユダヤの王である、その自分の立場を脅かすものを、滅ぼさずにはおれない人として、福音書に登場します。
ユダヤの王といっても、現実には、ユダヤを支配していた、ローマ皇帝から命じられて、ユダヤを治めさせてもらった、傀儡の王でしかなかった。
彼の父である「ヘロデ大王」の時代から、そうなのです。ユダヤの民が選んだわけではなく、ローマが立てた傀儡の王。なのでとても自分の立場を脅かすものを恐れているひとだった。
主イエスがユダヤのベツレヘムに生まれたとき、「ユダヤに新しい王が生まれたと聞いたのですが、どこですか」と、東の国の博士が、「ヘロデ大王」に謁見して、尋ねたという出来事がありました。
その時、「ヘロデ大王」は恐れたのです。自分の立場を脅かす存在の誕生を。そして、ベツレヘムの2歳以下の幼子を皆殺しにしました。
その「ヘロデ大王」が死んだあと、あとを継いだのが、息子ヘロデ・アンティパス。この息子のヘロデが今、「イエスの命を狙っている」と、ファリサイ派の人々が告げたヘロデなのです。
この息子のヘロデ・アンティパスは、すでに、バプテスマのヨハネを捕えて殺しているのです。
それは、この息子ヘロデが、自分の兄弟の妻を奪って結婚したことを、バプテスマのヨハネがとがめたからでした。それは神の教えに反していると、ヨハネは告げたのです。
彼は、預言者だから。神から言葉を預かり、まっすぐ語る預言者だったから。しかし、その預言者の口を、ヘロデは封じてしまうのです。
34節で主イエスはこう言われます。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す人々よ」と
ヘロデに限らず、旧約聖書を読んでみれば、沢山の預言者たちが、イスラエルの王、権力者のもとにつかわされ、迫害されたのです。
自分の命、存在の根底を支えている、神の言葉に、神の愛の語りかけに、招きに耳をふさがせてしまう。
罪の本質は、まさにそこにある。
預言者をなきものにするとは、神の言葉をなきものにすること。神の言に耳をふさぐことです。
愛しているから語りかけているのに、大切であるからこそ、見捨てられないからこそ、
神は、語りかけつづけているのに、
その愛の示しに、耳をふさがせていく。そこに罪の本質がある。
そしてそれは、ヘロデだけの話ではなく、イスラエルの民は、ずっとそのようにして、預言者の言葉に耳をふさいてきた。
神の愛の招きに、耳をふさいできた。そう主イエスは言われます。
34節
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す人々よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」
親鳥(おやどり)が、子である雛鳥(ひなどり)を、大きな翼の下でかくまい、あつめるように、天の親は神の子たちを、なんどもなんども、よび集めてきた。
今日の礼拝の、一番最初の招きの言葉、申命記32章11節も、神の招きの言葉でした。
「鷲(わし)がその巣を揺り動かし、雛鳥の上を羽ばたき漂い(この部分だけ岩波訳)、羽を広げて捕え、翼に乗せて運ぶように」
天の親である神は、神の子イスラエルを見守ってきた。
その親の愛の心、子知らず、ということなのです。次々に預言者の口をふさぎ、自分たちの考えで心いっぱいにしてきたユダヤの民。
そして今、天の親と100%一つの心で語る、主イエスの口も、ふさがれようとしています。
主イエスは、人々の手によって十字架に押し上げられ、殺されていくのです。
主イエスはそれを、こう告げます。
32節〜33節
「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。
だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないからだ。
主イエスは、神の言葉を語るものとして、エルサレムで死ななければならないことを、覚悟しているのです。
主イエスの命を狙う、狡猾な狐のような「ヘロデ」や、イエスの言葉が気に入らない、ユダヤの指導者たちがまっているエルサレムに到着すれば、すぐに、すべてが終わることを、死ななければならないことを、
主イエスは覚悟しつつ、しかし、こう宣言なさるのです。
「わたしは今日も明日も、その次の日も、自分の道を、進まねばならない」と
この道を行くしかないのだと。十字架がまっている道とわかっていても、この自分に与えられた道を、進まなければならないのだと
主イエスは言われます。
あの、第二次世界大戦のさなか、ナチスドイツに抵抗した、ボンヘッファーという牧師を、ご存じの方もおられるでしょう。
彼はその最後に、ヒトラー暗殺計画に加わり、捕らえられ、ナチスに処刑されてしまいます。
処刑をまつ牢獄で、なぜこのようなことを企てたのか問われた時、ボンフェッハーはこう答えます。
「牧師として、大通りで酔っ払いが猛スピードで車を運転しているのを見たら、唯一なすべきことは、犠牲者を葬り、遺族の慰めを祈るのみではなく、その酔っ払いの手からハンドルをもぎとることだ」
ある意味、ボンヘッファーは、ナチスに抵抗するという、自分の道を歩み続けていくなら、自分が汚れること、死ななければならないことも、覚悟していたのではないか。
いよいよ、絞首刑が執行される直前、見守る医者のまえで、ボンフェファーはこう祈ったそうです。
「これが私の最後です。でも、主にあっては新たな始まりです。
私はあなたと共に、世界におけるキリスト者の広がりを信じています」
この祈りをきいた医者は、クリスチャンではなかったのですが、静かに死に向かっていく彼の背後に、神の存在を感じたと聞きます。
さて、主イエスは、このままエルサレムへの旅を続ければ、やがてエルサレムで死ななければならないことを、悟った上で、
こう宣言なさったのです。
「わたしは今日も明日も、その次の日も、自分の道を、進まねばならない」のだと
その道だけが、無力なままに、十字架につけられていく、その道だけが、罪の滅びから人を救うために、主イエスに与えられた道だったから。
神の愛から離れるとき、人は、目にみえる力に頼り、軍事に頼る道へと、滅びの道へと歩み出していく。
主イエスが十字架につけられ、死なれた約40年後、イスラエルはローマとの戦争を始めてしまいます。
そしてローマによって、エルサレムの街も神殿も、滅ぼされてしまうのです。
35節で主イエスが、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」といわれていた通りに。
ヘロデは、主イエスの時代、その権力をつかって税金をあつめ、神殿の大改修をしたのです。
しかし、その力によって美しくなった神殿も、あのバベルの塔のごとく、破壊され滅びてしまうのです。
主イエスが、「見よ、お前たちの家は見捨てられる」といわれていた、その預言のとおりに。
神から離れ、人間の力に頼る道のその末路は、惨めなものです。
しかし、人の目には、全く無力なままに、十字架につけられ殺されていく主イエスが、
そのご自分の道を、歩みぬかれた、その先に、
今、2000年の時を越え、新しい神の家が、世界中に立ちあがり、そこで主イエスは礼拝されているのです。
この日本の花小金井教会でも、今日あらたに、主イエスの言葉が語られて、主イエスへの礼拝が捧げられているのです。
もはや、主イエスという神の言を、
罪に勝利し、解放する、福音の言を、
人は、抹殺することなどできないことが、あきらかになったのです。
主イエスは宣言なさいます。
「今日も明日も、その次の日も、自分の道を進まねばならない」のだと。
そう、主イエスは、今も、めん鳥が雛を、羽の下にあつめるようにして、
教会を通して、福音を語り、神の子を集めています。
今、この場所で、主イエスの言葉が語られ、主イエスの言葉が聞かれ、神の子が集められていることは、
まさに、あの十字架につけられ死んだお方が、今も生き、働き、神の業を進めておられる証です。
主イエスは、今も生きて働いておられるのです。
だからわたしたちは落ち込みません。
結局、力あるものが勝つ、力あるものの思い通りになるのだと、落ち込みません。。
結局、力あるものが、自分のしたいように、道をつくり、基地をつくり、国のかたちをつくり、歴史をつくるのか。
いつも、弱いものは支配されるだけなのかと、わたしたちは、下を向きません。
主イエスは今も生き、良い働きをしておられる。
悪霊を追い出し、病を癒し、悪いものの束縛から解き放つ、神の言、福音を語り続け、前進しておられる。
だから大丈夫。わたしたちは、主の勝利を信じ、祈りつづけ、賛美し続けます。
そして、今日また新たに、この地上に「この主イエスこそ、キリストだ」と告白する人が、
今日また新たに、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、主を賛美する仲間が、与えられる度に、
この世界はしるのです。
ああ、確かに目に見えないとしても、主イエスは、確かに生きておられることを、
今、ここにおられ、
勝利へとむかう、ご自分の道を、私たちと共に、進んでおられることを、
はっきり見ることが、できるのです。