「キリストの平和に生きる」(2016年8月28日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

コロサイ3章12節〜17節

 先週は一週間お休みをいただいて、すっかりリフレッシュさせていただきました。
山形、酒田、新潟、佐渡島と、渡り歩いて、新潟では私たちの教会から送り出した、H君にも会うことができました。
 そして、佐渡には私の母がいますので、会いに行きました。
実は、母は寺の住職の娘として生まれたので、真言宗ですけれども、ずっと寺で生活していたのです。私のおじいさんは、住職だったのですね。ところが、息子が牧師になってしまって、母にしてみれば、父は坊さん、息子は牧師というわけで、どんな気持ちなのだろうなと、思います。
おじいさんは死んでしまって、もう母は、寺とは関係ないのですが、今回、母が小さい頃一緒に遊んだ、隣の寺の住職さんに会いに行って、お寺の中をいろいろ見学させてもらったのです。


そのお坊さん。とても面白い方で、寺の中でいろいろな、体験コーナーを作って、観光客を呼び寄せているんですね。

写経の体験だったり、瞑想の体験だったり、子どもたちの工作のコーナーもありました。

そのひとつに、暗闇体験というのがあったんですよ。暗闇体験。これが一番人気だというので、最初は3年生の息子が興味を持ったのですけれども、いざ、その暗闇体験の場所にいったら、びっくりしました。

そこに何があったと思いますか。

棺桶なんですよ。棺桶。

そりゃ、暗闇体験には違いないけど、ちょっとご遠慮したいなと、心の中で思いました。

でも、住職さんは言うんですよ。

人間、なかなか変わらない。まあいいやと、なかなか変わらないでしょう。

でも、もう明日死ぬと思ったら、今日を精いっぱい生きるじゃないですか。

だから、一度この棺桶に入って、死んでもらうんです。死んだ気になってもらう。

そして、棺桶からでて、新しい気持ちになってもらうんですよ、とそういうことをいった。

だから、またでいいですとか、明日でいいやじゃだめなんだよ。今、はいらなっきゃ、って真顔でいうんですよ。

夫婦で入りたい人もいるから、二人用も作ってあるって、別室にある二人用の棺桶まで見せてくれました。

なんだか、そこまで言われて、くやしくなって、ぼそっと「はいってみようかなぁ」といったら、そばにいた息子がやだ怖いというので、残念ながら、入れなかったので、

わたしは、今日もちっとも、変わらないままです(笑)。

その住職さんの話を聞きながら、思ったんですよ。ああ、これって、キリスト教バプテスマ式とおんなじことを言っているじゃないかと。

バプテスマ式って、一回水の中に沈むことで、古い自分に死に、そこから起き上がることで、新しい自分に復活したことを、象徴している儀式だから。

バプテスマ式って、ある意味、古い自分への、お葬式なんですよ。この、バプテストリーは、ある意味、棺桶です。

ここで、しっかりと一回死んでいただきます。そうすることで、新しい自分に復活するわけだから。

ただ、あの住職さんが言っていた、棺桶にはいるのと、バプテスマとは、同じ死んで蘇るといっても、

ひとつだけ決定的に違うことがあるんです。わかりますか。

ローマの信徒への手紙の6章に、こうあるんです。

「わたしたちは、バプテスマによって、キリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました」とある。

キリストと共に、なんです。一人じゃない。キリストとともに、なんです。

そして、キリストとともに、復活する。新しい命に生きる。

すべて、キリストとともに。これが、決定的に違う。私たちはすることなすこと、すべてが、

「キリストとともに」「主イエスの名によって」行う。自力で変わるのではなく、キリストにおいて、変わる。

これがキリスト教の福音というものです。



さて、前置きが長くなりました。

8月は、いつものルカの福音書からしばらく離れて、「平和」というテーマで、御言葉に耳を傾けています。

今日は、「キリストの平和」がテーマです。

15節
「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」

ただの「平和」ではないのです。
「キリストの平和」なのです。

「キリストによる平和」といってもいいでしょうし、「キリストにある平和」といってもいいでしょう。

あえて引き合いに出すなら、「ローマによる平和」、いわゆる「パックスロマーナ」ではないのです。

圧倒的な力で、支配する平和とは違う。ローマが怖いから、社長が怖いから、おやじが怖いから、奥さんが怖いから、言いたいことは黙っておこう、とりあえず、従っておこう、「面従腹背」という

偽りの「平和」ではないのです。そんなものは、本当の「平和」ではないでしょう。

以前、ルカの福音書から説教した箇所で、主イエス様が、「わたしは地上に平和をもたらすために来たんじゃない。むしろ分裂だ」と言われた、ショッキングな個所を、覚えておられますか。

そしてイエス様は、

「父は子と、子は父と
母は娘と、娘は母と
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと

対立して分かれる」と、家族がバラバラになるようなことを言われたでしょう。

その日の説教でも申し上げましたけれども、イエス様はなにも、「平和」をぶちこわしにきた、と言われているわけではなくて、

力あるものが弱いものを支配してなりたつような、「平和」をもたらしに来たんじゃない。

父が子を支配し、母が娘を支配し、しゅうとめが嫁を支配して、成り立つようなものは、「平和」ではないのだから。

そうではなく、父も子も、母も娘も、姑も嫁も、

社長も社員も、教師も生徒も、強い立場も、弱い立場もなく、

神の前に、一人の人間同士として、立って、向き合って、支えあって、つながる。

この、神の愛という、熱い火によって、実現する平和を、

主イエスはもたらすためにこられたのだと。

「強いものが支配して、弱い者がだまる平和」ではない。

しかし、一方で、弱い者が、強いものに反抗し、抵抗すればいい、というはなしでもない。

そういう、どこまでいっても、罪を抱えた人間が、作り出そうとする、「平和」とか「秩序」を超えた

神によって実現する「平和」がある。

それが「キリストの平和」


「キリストの平和」をこそ、わたしたちは、心からしたい求め、集う、仲間です。

今日は、たまたま初めて、教会の礼拝に来たという方もおられるでしょう。

何十年も教会に集い続けている人もおられますね。

今日、ここにいるわたしたちも、実に様々な立場、年齢、考え方の違う人の集まりでしょう。

このあつまりが、どこか似た人の集まりというより、まったく違う人たちの、バラバラな集まりであればある程、

いった、わたしたちを、ここに集めている、その不思議な力はなんなのか、

それこそ、「キリスト」なのだという、証にも、なるでしょう。


福音書を読むと、主イエスが選ばれ、大切な働きを託していく12弟子は、実にバラバラな人たちだったではないですか。


徴税人のマタイという人は、ローマの支配に協力していた裏切り者であったし、その正反対に、ローマを倒すのだと、抵抗運動をしていた熱心党のシモンさえ、イエス様は大切な12弟子に招いたのです。そのほか、素朴な田舎の漁師たち。なにをやっているのか、わからない人たちを、主イエスは仲間に招いたのです。

エス様が集められた、神の国の選抜チームは、あまりにもバラバラな人たち。

徴税人のマタイと、熱心党のシモンは、口も利かないほど、仲が悪かったんじゃないか。

こんなバラバラなチームでは、オリンピックの日本代表チームには、なれませんよね。

しかし、主イエスが監督である、「神の国の選抜チーム」は、むしろ、これでいい。このバラバラがいいんです。

なぜなら、人間の能力とか、社会的立場とか、血筋とか、そういうよくある、人間の選びではなく、

人間の目には、バラバラに見えるからこそ、これは「神」の選び以外にない。

神が集めたのだとしか、言いようがない、仲間になれるのだから。

今日のコロサイの手紙の言葉で言うなら、

12節

「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、あいされている」

一人ひとりの集まり。それがわたしたちです。

能力とか、立場とか、国籍とか、そんな限界ある人間の選びではないのです。

どうしてかわからないけれども、神が選んでくださって、

自分は、とてもとても、そうは思えないけれども、

でも、神が、こんな罪深い自分を、聖なるものにしたのだと、言ってくださる。

ああ、わたしたちは、こんなに神に愛されていると、気がついたわたしたちだからこそ、

わたしたちは、神の国のためのチーム。仲間になれるのです。

教会は、政治結社でも、平和活動のNPOでもなく

神の国。天地を作られた神さまの、心が実現しますようにと、祈り使えるチームです。

キリストは、わたしたちを、そういう仲間にしたくて、

ほっとけば、すぐに、互いを責め合い、ばらばらになってしまう、

そんな、わたしたちのエゴ、罪をすべて身に受け、十字架につけられたのです。

まさに、命がけの愛で、ともに生きてほしいと、神はキリストにあって、私たちを選び招いてくださいました。

どうか、今、ここで礼拝していることの恵みに、気が付いていただきたい。

わたしたちは、本当に、実に、恐ろしいほどに、神に愛されて、ここに集められているのです。


15節

「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」

あの人とは一緒にいられない、気に入らないという、エゴを、

結局キリストをさえ、気に入らないと十字架につけていく、そのエゴを、罪を

わたしたちは、繰り返し、繰り返し、悔い改めて、キリストの平和が心を支配することを求めます。

人のエゴ、その罪ゆえの、十字架の先には、神がキリストを復活させられたように、

わたしたちも、なんどもなんども、愛することに失敗し、

どうしても許せない、顔も見たくない、その自分の心のエゴを、自分ではどうしようもできなくとも、


しかし、神は、その愛の絶望から、復活させてくださる。

神だけが実現する「平和」を、わたしたちに、味あわせてくださる。

「キリストの平和」

わたしたちは、この「キリストの平和」に、心からあこがれます。

今日は12節から読みましたけれども、その前の11節には、こう記されているのです。

「もはや、ギリシア人とユダヤ人、かつれいを受けたものと受けていないもの、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。

キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」

「キリストが、すべてのもののうちにおられるのです」

「え、あの人のうちに、キリストはいないでしょう」「この人もだめでしょう」という、その人の中にこそ、まさに、復活したキリストはおられる。

このことを信じて、互いに仲間になるようにと、わたしたちは今日も、ここに招かれました。

ですから、み言葉のとおり、ゆっくりと12節からの言葉に耳を傾けて、

わたしたちの心に、み言葉を宿らせましょう。

お読みします。


「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されているのですから、

憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」


わたしたちは、人がなんと言おうと、

自分でさえ、こんな自分ではだめだと、責めていようと、

わたしたちは、神が選び、神が聖なるものとし、神に愛されている仲間。

このことを信じ、受け入れて、さらにつながりましょう。一つになりましょう。

それこそが「キリストの平和」。

この「キリストの平和」、心の中にしっかり根付き、宿るように、

互いに御言葉を教えあい、諭しあい、詩編と賛歌と霊的な歌により、

感謝して心から神をほめたたえ、礼拝をしつづけましょう。


「キリストにしか実現できない平和」を

一緒にいられないあの人と、許せないこの人と分かち合うために、

ともに、礼拝をささげ続けるのです。


今から約100年前、1914年の12月25日

第一次世界大戦を戦う、イギリス軍とドイツ軍が、鉄条網をはさんで一時、戦いをやめた出来事があります。

クリスマスの夜、ドイツ軍の最前線から「きよしこの夜」の調べが流れると、相手のイギリス軍は自発的に停戦命令を出したといいます。昨日まで敵同士で殺しあっていた人々が、戦いをやめ、中間地帯の真ん中で顔を合わせるという、奇跡が起こります。

その様子を、イギリス軍のファーガソンという兵隊が、手紙にこう書き残しました。

「握手をして互いにメリークリマスと挨拶した。その後はまるで何年もの友人のように語り続けた。ちょうど無人地帯の中央、鉄条網の間に私達と彼らは立っていた。彼らの中には英語のわかるのがいて通訳した。まるで街頭で円陣を組んで話し込んでいるようなものだ。
すぐ残りの全員が出てきた。その後は円陣がまるで前線全てに繋がったように、あちこちに出来た。暗闇のなかで笑い声が聞こえ、煙草をつける火が見えた。互いに煙草を交換したものだ。言葉が通じないグループは身振りで何かやっていた。

数時間前まで殺し合いをやっていた人間がどのようにして話し、笑いあえるようになったのだろうか。」


このありえない奇跡の現場を体験したファーガソンの、

どうしてこんなことが起こったのだろうかという、問いの、答えをわたしたちは、知っています。

この平和は、戦いによる平和、軍事による平和ではなく、


クリスマスの日に、この世にお生まれになった、

「キリスト」をともに称える人々による、「キリストの平和」なのだと