真理なら、自由にするはずだよ

shuichifujii2013-06-07

(教会のイチジクが実をつけてきたよ)
 今日の午前中、統一協会(「教会」じゃなく「協会」ですよ)の方が、「布教じゃありませんから」と、文鮮明の本をおいていかれました。

布教じゃないなんて、なんでわざわざ言うのかな。信じていることに自信があるのなら、本当に自由と喜びを与えるのなら、ちゃんと向き合って語ればいいのに。

ただ、僕が問題にしたいのは、そこに書いてある内容とか教えとかが、正しいとか間違っているとか、そういうことではないんです。

そういう本を配らさせている教祖とか、教祖を中心とする人間の組織とかが背後にあるわけです。そこからの命令によって、末端の人々が批判もできずに動かされている、そういうあり方自体が問題だといいたいわけですよ。

つまり、「ある人間」が「ある人間」を支配したり、利用するために、「神」とか「真理」という言葉をつかっている構図が、基本的に問題なんですよ。

なのでその方には、一言「みなさんのように、末端で一生懸命やっている方は、本当に大変だと思うけど、正直、教祖様の本を配らさせられて、上の組織に利用されていると思いますよ」と申し上げました。まずは、そのことに気がついてくれたらいいなぁ。

そもそも、どんな宗教だって、たいていはいいことを言っていますよ。だれもが不安に思っていたり、疑問に思っていることに、ある回答をあたえる、いい話をするものです。

なので、教義が正しいとか、正しくないとか、そういう議論を始めても、水掛け論になるし、そうやって相手の土俵にのってしまうこと自体、相手の思うつぼ。

ポイントは一つなんです。お宅では、ある人間や組織が、「神」のように反論不可能に絶対化されていませんか、と問うことです。もしそうだとしたら、そこにかかわることは、その人たちに支配される、ということですよね、ということです。

 これはべつに宗教団体だけの話ではなくて、会社にも当てはまる話。社長とか上部組織の決定が、まったく反論不可能、絶対化されている組織に所属するということは、社長なり上部組織に支配されますよ、ということです。「地域社会のために」とか「お客様の笑顔のために」という口当たりのよい教義によって。

 それじゃ、教会はどうなの。

 牧師とか神父とか、人の組織とかが、反論不可能に絶対化されていたら、全く同じ。あぶないですよ。

 絶対なのは、この宇宙を創造した神さまだけ、ということを信じるのが、聖書の信仰の基本中の基本なのだから。

 神ではないものを、神にしない。人が人を支配しない、されない自由へと解放するのが、絶対の神さまを信じる、ということなのだから。

 人や組織を絶対の神のように崇めない。これは教会も同じ。

 ただ、そうはいっても、クリスチャンは一切の権威を認めない、従わないというアナーキズムではないんだよね。

 自発的に、内発的に、喜んで人々に仕えていく、そういう自由に生きるわけです。キリストも神の子でありながら、人々を愛し、つかえてくださったように。

 その復活したキリストが、わたしたちのなかに、ともにおられる。牧師とか神父とかだけじゃなくて、「わたし」「わたしたち」のなかに、ともに、いる。

 ここからくる内発的な愛と喜びが、自発的に人々に仕えさせる「自由」を与えるのだから。

 人を恐れたり、顔色をうかがったり、周りの人からどう見られているか気になったり、自分で自分を責めたり。そうやっていつもなにものかに動かされてる、「恐れ」による支配という誘惑に、わたしたちはいつもさらされているでしょう。

 だから、毎週、教会で語られている福音によって解放されるんです。「恐れるな」「そのままであなたは神に愛されているからだいじょうぶだ」と語られる福音によって、束縛からの解放と自由を得る現場。

「自由」なのであって、身勝手な「放縦」じゃないんですよ。「放縦」じゃあ、他者と共に生きられない。

 「自由」にお互いに仕え、共に生きる仲間。神の家族。

 それが教会。

ヨハネによる福音書8章32節
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」