その人のありのままの存在の価値をちゃんと認めることは、その人を「叱ってはいけない」ということではないんだよね。
まず、基本的なこととして「叱る」ことと、「怒る」ことは違うんです。
「怒る」ことは、相手を自分の思い通りに支配しようとすることだし、そのために、相手の人格や存在を否定することなので、これは問題。
一方で、「叱る」ということは、相手を支配することではなくて、「禁止」の体験をさせることです。年齢によって、「指導」とか「注意」という表現になるけれども、基本的にそれらは「禁止」体験でしょう。
この違いは、ちゃんと押さえておきたいですね。
「●●をしてはいけないよ」「ちょっとまちなさい」「ルールを守ろう」という言葉によって、「禁止」の体験をさせる
そして、「禁止」こそがしつけの本質であり、「しつけ」すなわち、禁止体験なんです。
「禁止」の具体的内容や理由よりも、大切なのは、この世界には「禁止」というものが存在することを学ぶこと。
それが「人間」となっていくためのに外せない通過点だから。
アダムとイブが最初に経験したのも、神が命じた禁止だったわけです。
「禁止」の体験とは、いいかえれば、刺激に即座に反応しないことを学ばせるということ。
衝動を実行することを遅らせることを、子どもの時期に習得させる。それがしつけ
食事を目の前にして「いただきます」を口にすること
玄関から上がったら、靴を揃えなおすこと
なにかをもらったら、「ありがとうございます」と云うこと
これらのしつけは、お行儀のためのようであるけれども、その本質は、刺激に対し即座に反射しようとする自分を、一瞬拘束し、衝動の実行を遅らせることを子どもたちが学ぶことです。
いわゆる「キレる子」とは、刺激に対して反応を制御できず、衝動の実行を遅らせることができない子であり、いずれ自己崩壊していってしまう。
道徳とは、他人のためを思うという前に、自己崩壊を克服するためにあるわけです。
大人になって、信号が赤なら発車を我慢する、欲しくなっても盗まない、カッとなっても殴らない。
これらのことができるのは、子どもの時に、衝動を遅らせ、刺激に反射しないことを「叱られる」ことで学んだから。
それからまた、なにか技術を習得する際にも必ず「叱られる」ということが必要
すぐ刺激に反応しない、衝動を遅らせるために必要なのは、型。
「叱られる」ことで型を学び、刺激や衝動に反抗し、自動的に型通りの行動ができることが、あらゆるスポーツ、芸事、仕事の上達のための基本なのだ。
刺激への反射と実行を一定の型に押し込める、無意識にできるようになるまで、何度も反復する。
「叱られ」て、型にはまるから、自由な発想が生まれない、というのはちがう
芸術家のインスピレーション、匠の磨かれた技は、勝手気ままな反応とは逆だから。
自由な発想に見えるものこそ、実は、厳格に数千の法則がその背後にちゃんとあるから。
自由な発想とは「型」を習得したものが「型破り」をする時に生まれるもの
一定の「型」に押し込められ、「型」を習得したことがない人の「自由な発想」は、つまり「かたなし」。
だから、叱られるということは、実は幸いなことなんじゃないかな。
昨今の虐待問題は、相手の人格を否定するような言葉や態度で「怒って」しまっているのを、「しつけ」と勘違いしていることにあるんじゃないかな。
だから「怒ら」ないで「叱る」ことがポイント。
そして実にこれが一番の難題。それこそ、自分の感情や衝動を抑えることができるようにとちゃんと「しつけ」られている「大人」でなければできないこと。
そういう意味で、日々の祈り、そして聖書の御言葉にふれ、天の親からいつも「それはいけないことだよね」「ちょっとまちなさい。忍耐しなさい」って愛されているからこそ「叱って」もらえる神の子って、実に幸いなんだよね。
新約聖書
ヘブル人への手紙12章
「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」