教会って、「なにをしたいか」「なにをしているか」という
目に見える「活動」で評価し出すと、
最も大切な「人」が、おいてきぼりになったり、
阻害されるという、本末転倒なことに、なるんですよね。
去年の12月にブログに書いた記事なんですけど、大切なことだから、もう一度掲載しときましょう。
「教会の企業化」
「企業」とは、「目的(利益)」を達成するため活動を行う「組織」一方「教会」とは、神を愛し互いに愛し合う「共同体」
企業は、「存在より活動」という原理による組織体。
社員同士の交流や、その地域に会社が「存在」することよりも、
目的達成の「活動」が優先する
ゆえにグローバル化と合理化により、人という存在が簡単にとりかえ可能とな
り、会社や、工場という存在も、地球上のどこにでも、移転していく。一方、教会は「活動より存在」という原理でなりたつ共同体。
その場所で礼拝する1人1人の「存在」によってつくられる共同体。
それが教会の本質。
協力して、ボランティア、コンサート、教育事業、伝道などの「活動」を行うこともあるが、
それも「存在」あっての「活動」
つねに「存在」が「活動」に優先されるのが、教会という共同体。
しかし、企業的原理が幅を利かせている現代にあっては、
企業的原理を取り入れた教会に、人も集まっているように見える。
たとえば、アメリカのメガチャーチといわれる大教会は、
教会の組織を上手に企業化して、沢山の人(顧客)を集めているように、みえる。人々のニーズ調査をし、人々が求めているものを提供し、顧客になってもらうために、さまざまな活動を展開し、
地域の小さな教会を飲み込むようにして、一つの教会が巨大化していっているように、みえる。
それは地方において、大型店舗に顧客が集中し、地域の小さな商店、地域共同体を飲み込んで巨大化していっている姿とも、どこかシンクロしているように、みえる。
あるメガチャーチの牧師が主張している「目的主導の教会」という理念にも、
「企業的原理」、「目的達成原理」というにおいを感じる。「教会の企業化」
さて、「活動」が「存在」より優先される組織は、
おのずと「存在よりスキル」「存在より行動」となり、
目の前の1人の存在を、行動、能力によって評価しがちになる。出来る、できないで裁きあう、律法主義的な雰囲気がつくりだされる可能性がある。
しかし、教会がこの世界に伝えているメッセージとは、
罪ある人間の行いではなく
神の一方的な恵み、愛が救うという「福音」
それを宣言し、その「福音」を体験する場が教会。
存在そのものが、神に造られ、赦され、愛されていることを味わう現場。
ゆえに、教会を、神の家族とイメージするように、パウロは教えてくれた。
家族とは、なにもしなくても、ただそこに一緒にいること、存在することに意味ある共同体のこと。
家族への参加資格は、ただ、そこに生まれることだけ。
もし、家族がみんなで協力し、なにか一緒に出来ることがあったら、それは素晴らしい。
でも、赤ちゃんやお年寄り、体の弱い人、病気を抱えた人がいるとき、
なにもできなくても、ただそこに一緒に安心していられる家族であるほうが、大切なこと。神の家族も、
ただそこに一緒にいて、お互いの存在を喜びあう共同体協力して、なにか一緒にできることがあったら、それは素晴らしい。
でも、なにもできなくても、しなくても、お互いの存在を喜びあい、
赤ちゃんから、お年寄りまで、みんなで心をあわせて、
お互いを存在させた、天の親に向かい、
ただすなおに、まっすぐ
感謝の賛美を共に歌っているとき、
共に礼拝をしているときこそ、
それは、実にこの世界の中にあって、
教会にしか見いだすことのできない
永遠の素晴らしい価値ある一瞬であることに、
気付きたい。