悪と戦うというありかたも、否定はしなけれど、
でも、わたしはそういう方向性はとらないんですよ。
なぜなら、
イエスさまは、毒麦の譬えのなかで、
良い麦畑に、毒麦がはえてしまったとき、
僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
主人は『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれないから、刈り入
れまで、両方とも育つままにしておきなさい
刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけるから」
って、つまり、最後は、神さまがちゃんと毒麦をきれいに抜いて、よい麦畑にしてくださるから
それが、神の国を来らせる、神の御心なのだから。
人が、自分の考えで
「あの毒麦をこのままにしていちゃだめだ、ぬかなくっちゃ」
「あの悪を、自分たちでなんとかしなくっちゃって」
戦わなくていいよ。
むしろ、そういう人間の限界ある「正義」によって、よいものも一緒に、被害をうけてしまうから
って意味だと、わたしは思っているから。
毒麦を抜く労力や時間があったら、
むしろ、よい麦を、もっともっと植えましょう。
神の愛を、福音をつたえましょう。
それが、わたしの立場なんだよね