信じたいけど信じられない場合

 昨日の夜、上山市にお住まいの方から、メールでご質問をいただきました。教会のホームページを見て連絡をくださったようです。お返事をしたところ、お役に立ったようなので、ご本人から許可をいただき、お名前を伏せたうえで、内容をご紹介させていただきます。


<ご質問>
 
「はじめまして。私は○○と申します。


クリスチャンではありませんが、幼いころの家族の問題などもあり、生きづらさを感じ、ある教会でカウンセリングを受けています。


教会に行く前も、三浦綾子さんの本を読んだり、三浦光世さんの講演に行ったりと、キリスト教には縁があります。


最近は教会で聖書の勉強もします。教会の先生はとても素晴らしい方で尊敬しています。三浦綾子さんの本にも感動、前川正さんにも感動。キリスト教を信じて、信仰の道を歩きたいと思っていますが・・・どうしても今一つ信じきれないのです。どこか外国の話みたいに思えるせいか。


三浦綾子さんに感動して信仰に入る・・・素晴らしいことだと思います。でも私はなかなかそうならない。教会に行くようになって2年以上経ちます。信じられない自分が苦しくなってきました。本当に心からキリスト教を信じられるようになったのは何故ですか?聖書の言葉の引用ではなく、経験を教えてください。(突然こんなメールしてすみません)」


<藤井から○○さまへ返信>
メールをありがとうございました。

「心からキリスト教を信じられるようになったのは、何故ですか」というご質問ですね。


 キリスト教を信じるというよりも、イエスキリストは神の子であり、このわたしを罪から救ってくださると信じることができたのは、何故ですか、というご質問ということでよいでしょうか。


 わたしの場合は、聖書を読むようになって、イエスキリストの言葉にふれる中で、自分自身のなかに、それまで思いもしなかった、罪というものを自覚したことが、大きいことでした。


 三浦綾子さんの本にふれて、感動し、自分もこのように生きることができたら、どんなにいいだろうという思いがあたえられ、三浦さんの本を次から次へと読みました。そのときは感動するし、そんな風に、愛に生きてみたいと思うのですが、現実には、どうしても愛せない、ゆるせない人がいる。聖書を読むようになって、ますます、自分の中にある、自分ではどうにもならない、醜い思いに気がつくようになります。聖書の語る、罪ということがリアリティを持ってくると共に、罪からの赦し、十字架も、自分のなかでリアリティあるものになっていったと思います。


 わたしの場合は、「信じないものから信じるものになった」という、その瞬間がいつだったのか、わかりません。気がついたら、「イエスさまにすがっている自分」になっていました。


 自分ががんばって、イエスさまを信じようとした、というよりも、聖書を読み、礼拝に参加し、説教を聴く生活のなかで、いつのまにか、イエスさまのほかに、もう自分はどこにもいけない。もう、この方しかいない、という心になっていった、としかいいようがありません。


 そしてバプテスマを受けました。それは終わりではなくて、始まりだったと思います。


 バプテスマを受けたからといって、何の疑いもなく、完全に信頼しきって、信仰生活をしたわけではありません。信じられないとき、疑いのとき、恐れの時、というものは、バプテスマを受けてもあるものですし、実際ありました。そうやって、信仰自体、さまざまな出来事や教会生活の中で、徐々に成長させられていっていると思います。完全な信仰というものは、天に行ってからではないかと思います。


キリスト教を信じて、信仰の道を歩きたいと思っていますが・・・」と、○○さんが思っておられること自体、神様の導きの下に与えられた思いではないでしょうか。いまひとつ信じ切れない自分のまま、そのまま、イエスさまの懐に、飛び込んでいかれたらどうでしょうか。


 「イエスさま、信仰のないわたしを哀れんでください」と叫んだ父親が聖書に出てきます。そして、これこそ、実は立派な信仰なのですね。


主の平安をお祈りいたします。


<○○さまから藤井への返信>

お忙しい中、大変ご親切なお返事をいただきましてありがとうございます。
私も三浦綾子さんの作品を次々読んでは感動するのですが、日常生活に戻ると人は許せないし愛せない。こんなことを飽きもせず繰り返して生きてきました。


自分の罪深さに気づいても、心のどこかであの人の方が悪い、あの人よりはましと思っているのです。だから心からイエス様に頼ることができないのです。
性格的にも、確かな証拠がないと信じられないところがあります。でも、目に見えないことを信じるのが信仰なんですよね。


三浦綾子さんの道ありきに、「人間の心というものは尋常にはいかないものである。前川正の愛と言い、西村先生の真実と言い、共にクリスチャンの中でも特に優れた人たちである。この人たちに愛され、導かれれば、すぐにもクリスチャンになってふしぎはないはずである。それがそうは簡単にいかないわたしだった。」という部分があります。三浦綾子さんでもそうだったのだなぁ・・・と思います。比べるのも失礼ですが。


今回のお話は、私の求めていたものです。大変参考になりました。