「見たことない信仰」(2015年9月6日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2015-09-07

ルカによる福音書7章1節〜10節
1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。
2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」
6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。
7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。
8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。


今わたしたちの教会は、ベビーブームを迎えていると言っていいんでしょう。続けて二人の教会員のご家庭に赤ちゃんが与えられました。
 命は神さまのプレゼント。本当に感謝です。これは教会の喜び。神の家族に新しい命が与えられた喜びです。
今、そのように、ここにいるだれかの喜びを、わたしの喜びとして喜ぶことができる。悲しみも、分け合うことが出来る。
 しかし、よくよく考えてみれば、わたしたちは赤の他人ではないですか。
それなのに家族のように、もしかしたら家族以上に、喜びや悲しみを分け合うことさえある、不思議な集まり。教会。


あの人に会いたいとか、この人に会いたいということではなくても、ただ、神さまを一緒に礼拝したい。ただそれだけのために、今日、ここに集まっているわたしたちの、この集いの不思議さ。

今、わたしたちがここに集っている理由は、ただ一つ、イエスさまを信じている。イエスさまへの信仰があるからですね。
仏様への信仰ならば、お寺にいくわけだから。
わたしたちは、イエスさまへの信仰がある、そういう集まり。
「信仰がある」からこそ、今ここにいるはずなのです。

いや、まだバプテスマ。いわゆる「洗礼式」は受けていないのですけど、という方も、もちろん、ここにはおられるわけですけれども、
それじゃあ、その方々は、まったく信仰はないんですか。0ですか、と問われたらどうなのでしょう。
信仰がまったくないにもかかわらず、家でごろごろしていてもいい日曜日に、教会の礼拝にやってくるものでしょうか。
今、ここに集っていることのなかに、「信仰がみえている」とはいえませんか、どうでしょう?

それではいったい、信仰が「ある」とか「ない」というのは、どういうことなんでしょう。

すでにバプテスマを受けている人も、何十年も信仰生活をしています、という方も、
今、なんの疑いも迷いも、恐れも不安もなく、何の曇りもなく、イエスさまを100%信じて、ここに座っていますか?と問われたらどうでしょう?

そういわれたら、たじろぎませんでしょうか。

わたしは、牧師をしていますけれども、正直、たじろぎます。牧師であっても、迷いも恐れも不安もなく、100%イエスさまを信じて委ねていますとまでは、いえません。
まだまだ恐れもあるし迷いもある、信仰の薄いものです。「えー牧師なのに」って、つまづかないでくださいね。

逆に伺いたいのは、そもそも、「信仰がある」とか「信仰がない」とは、いったいどういう状態のことなんですか? ということです。

 わたしは26歳でバプテスマを受けたのです。その前に、しばらく教会に通っていたのですが、教会の人に「イエスさまを信じませんか」といわれるたびに、「そりゃイエスさまを信じたいと思って教会に来ているのだけれど、いったいどれくらい信じたら、「イエスさまを信じています」っていえるのですか、と逆に質問したくなったことがありました。

いったい、イエスさまを信じている。信仰があると、なにをもっていえるのでしょう?

さて、先ほど朗読されたみ言葉は、ローマの百人隊長の信仰の物語でした。彼の信仰は、イエスさまでさえ「関心」なさったという、信仰の物語です。

エスさまから「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とまで、言っていただけた、百人隊長の信仰の物語。

いいですよね。彼は、イエスさまから太鼓判を押されたわけですから。なんとこの百人隊長さんは幸いなことか。病気だった彼の部下も癒されたのも、彼の信仰のゆえ、なのだから。

こういう素晴らしい信仰の物語を読むたびに、さて、それでは、わたしはどうなんだろう。わたしたちの信仰は、どうなのだろう。イエスさまからどう言われるのだろうと、そんな気持ちになりますね。

イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」「見たことがない」とはつまり、イスラエルの中には、見出したくても見いだせなかったということでしょう。

今日の朝の教会学校では、その昔、イスラエルの指導者モーセが、1人シナイ山という山の上で神さまの教えを頂いて、山から下りてきたら、イスラエルの民は、モーセのことが待てなくて、自分たちで勝手に金の子牛を神さまにしていた、というお話でしたね。

そうやって自分たちを救ってくれた神さまのことを、信じ切れずに、待ち切れずに、裏切っていくことを繰り返していってしまうのが、イスラエルの歴史でした。

ある意味、その最後の最後に、イエスさまはやってこられて、イスラエルの人々の中に入っていって、「平地の説教」「山上の説教」をなさったわけでしたから、

それは当然、「いい教え」を教えている、という話しではなくて、あのシナイ山で、モーセが受け取った、天の父の御心と、本質的に同じことを、イエスさまは語られて、これを信じ、従ってきなさいと、イスラエルの人々に語られたわけなのだから。


先週の礼拝では、イエスさまの教えを聞いて、信じて行う人は、地面に深く穴を掘り、岩の上に家を建てた人のようだ、という譬え話を聴きましたね。

イスラエルの人々、それは、イエスさまの弟子たちももちろん含めて、
エスさまは、この教えを、ただ、聞くだけではなくて、信じて従ってくることを求めて語られているし、
エスさまは、そのように、聞いて従ってくる信仰を、イスラエルの人々の中に見出したいと願って、「平地の説教」を語っておられたはずなのです。


ところが、そのイエスさまが見出したかった「信仰」は、神の言葉を語っていたイスラエルの人々の中ではなくて、むしろその外側にいた、異邦人の百人隊長のなかにあった、という驚き、神秘が、この物語の大切なポイントじゃないでしょうか。


この出来事は、カファルナウムという場所で起こったのです。カファルナウムは、ヘロデ・アンティパスという領主が治めていた所です。そのヘロデに雇われ、治安維持活動をしていた隊長さんが、この百人隊長。

恐らくローマ人ではなくて、ユダヤの隣のシリアの人だったんじゃないかといわれるのですね。ローマ人は、ヘロデ王の傭兵にはならなかったから。

正確なところはわかりませんけれども、まちがいないことは、この人はユダヤ人ではないということです。
なのにおそらく私財を投じ、ユダヤ人が礼拝ができるようにと、この町にシナゴーグといわれる会堂を建てた、ということです。

日本は先の戦争の時代、アジア諸国に軍隊をおくっただけではなく、日本の神を拝むようにと、神社崇拝をさせることで、支配しようとした悲しい歴史があったことを、わたしたちは知っています。

そういうことからいえば、自分たちの信じている神を、礼拝をさせてもらえる。自分たちを支配している、見張っている百人隊長は、それどころか、わたしたちが礼拝できるようにと、会堂さえ建ててくれた。

この事実は、ユダヤ人の長老たちの口から、「この人は、ユダヤ人を愛してくれたのです」「自ら会堂を建ててくれたのです」とイエスさまに訴えさせるに十分な行為でした。

ユダヤの長老たちは、この百人隊長のために、一生懸命とりなすのです。

この人は、イスラエルの神を知らない、異邦人ではある。けれども、イエスさま。この人は、あなたに癒していただくのに、ふさわしい人なのです。本当です。ユダヤの長老である、わたしたちが保証します。どうか助けてあげて下さい。とユダヤの長老を動かした、百人隊長の愛情。

実は、マタイの福音書にも、同じ出来事が書かれているのです。でも、マタイの方は、百人隊長が、自分で直接、イエスさまのところに助けを求めに来る話になっている。

でもルカはちがうのです。百人隊長とイエスさまの間に、ユダヤ人の長老たちが入るのです。

そしてむしろユダヤ人の長老たちが、熱心に、この百人隊長のために、一生懸命願っている。

これはもちろん、百人隊長にユダヤの長老たちが脅されて、言わされている、という話しではないでしょう。

彼は会堂まで建てているのですから。

むしろ、ユダヤの長老たちが、これほどまでに熱心に、一生懸命になって、この異邦人の百人隊長のために、イエスさまに懇願している姿の中に、

この百人隊長が生きていたその生き方、人生の実りの一端を見る思いがするのです。ルカはそれをこそ、伝えたくて、ユダヤ人の長老のことを記しているのではないですか。

わたしたちは、毎週毎週、イエスさまの愛の教え。「平地の説教」といわれる教えを、聞き続けて来ました。

「敵を愛しなさい」「あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」「まず、あなたの目から、丸太を取り除きなさい」

そして最後に、そのイエスさまの教えを聞いて、信じて行う人は、地面に深く穴を掘り、岩の上に家を建てた人のようだという、言葉を聴いたのです。

そして、その続きの今日の物語に、まさに登場してきたのが、ユダヤ人という敵を愛し、自分を憎むであろうユダヤ人に親切にし、ユダヤ人を裁くことなく、罪人と定めることなく、むしろ、そのように人を見下し差別させるような、目の中の丸太が、とりのけられて、目の前のユダヤ人を愛して、自分の財産さえ犠牲にして、ユダヤ人のために会堂を建てた、この異邦人の百人隊長が登場した。


神の言葉を知っている、聖書を学んでいるのだから。神を知らない異邦人とは違う。わたしたちは神を知っている。
神に選ばれた聖い民である。

そういう自分や自分の民族のプライドの上に、座り込んでいたイスラエルの中には、見いだせなかった姿。

何の社会的力も、権威も、立場もない、30歳そこそこの、青年宗教家としか見えなかったであろうイエスさまに助けを求め、

しかも、イエスさまが家に来てくださることになると、彼は「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎え出来るような者ではありません」とさえいう、100人もの部下を持つ権力者。

1人に「行け」と言えば生き、、他の一人に「来い」といえば来る。また部下に「これをしろ」といえばその通りにさせることができる、力ある立場にある、百人隊長のこの謙遜な姿。

そしてそもそも、彼の病気を直してほしいという話しではなく、彼の部下のため。しかも、この「部下」という言葉は、実際は「奴隷」と訳せる言葉であって、「奴隷」の1人のために、でもこの百人隊長にとっては、その人は、無くてはならない人であったから、


エスさまに、どうか「ひと言おっしゃってください」「僕を癒してください」と願わずにはいられなかった、百人隊長の、この愛と謙遜の姿に触れて、イエスさまは、きっと驚きと共に、

「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われたのではないでしょうか。


さて、信仰とはなんなのでしょう。イエスさまが言われている信仰とは、なんなのでしょう。

わたしたちには、そのイエスさまの言われる信仰は、あるのか、ないのか?

エスさまが言われた、
「言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」という言葉をきいて、

なにより驚いたのは、まずもって、この百人隊長自身だったに違いない。

なぜなら、自分はふさわしくないと思っていたのだから。イスラエルの、あの信仰の長い歴史を生きてきた、信仰深い人々の、自分は仲間になどなれるわけがない。自分は、イエスさまの前に出るのに、ふさわしくない人間、神に対する信仰の薄い人間だと思っていたに違いないからです。

そしてそれは周りにいたユダヤ人の長老たちも、そう思っていたはずです。この異邦人の百人隊長が、わたしたちユダヤ人を同じ信仰をもっているとは思えない。会堂を建ててくれたし、大切にしてくれたけれども、でも、イスラエルに属している、神の民ではないから、自分たちが代わりに取り次いであげようとおもって、イエスさまのところに来たわけですから。

つまり、百人隊長も、ユダヤの長老たちも、「信仰」ということについて、思い違いをしていた。
信仰から一番遠いと思っていたのに、実は「これほどの信仰を見たことがない」という信仰を、神はこの百人隊長に与えていた。

この驚き。この人の物差し、人の思いを超えた、神が与える信仰の宝は、往々にして、本人も周りも、気がつかないものなのです。

いやむしろ、自分には信仰があるとか、ないとか、「自分の信仰」などという自意識に捉われると、律法学者たちのように、分からなくなってしまう、見えなくなってしまうのが、

神の与えたもう「信仰」というものの、不思議さ。尊さ。

実は、ここに集うわたしたちは、みな、自分が気がつかない中で、自覚しない中で、すでに、この神が与えたまう「信仰の宝」にいかされているのではないですか。ここに集まっているのではないですか。

それは、この私が信じているとか、わたしには信じられないとか、わたしにはふさわしくないとか、

そのような、「私」という、自意識ではとらえられない「信仰」

あの、弟子のペトロが、イエスさまに向かって、「あなたはメシア、生ける神の子」ですと信仰の告白をしたときに、、

「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と主イエスが言われた、天の父があたえてくださる信仰。

それは、今、わたしたちのなかにも、与えられているはず。

わたしはなんて不信仰なのかと、やなむあなたのなかに、
エスさまは、一体どこにおられるのかと、叫ぶ現実を生きるわたしたちの中に、

「あなたのみ言葉をあたえてください」と、ただただ礼拝に集わせてくださっているのは、

「あなたの言葉こそ、わたしたちを支える岩」ですと、賛美を歌わせてくださっているのは、

人には造り出すことなどできない、神の不思議な、不思議な、「信仰」というプレゼントを頂いているからではないですか。

エスさまの十字架と復活によって、与えられた、一方的な神の恵みのプレゼントを、

この百人隊長のなかに、神が与えたものをまったく同じ、

「みたことのない信仰」という「宝」を、

わたしたちも今、神に頂き、ここに集う、幸いなる、仲間なのです。


祈りましょう。