やはり「喜び」なんだよね

shuichifujii2008-06-06

 今日は小雨が降ったりやんだり。長袖一枚では少し寒く、薄い上着がほしいほどの気温。


 午前中、東京のクリスチャンの知り合いに電話。その方はかつて、キリスト教系の異端から抜けでて、教会でバプテスマを受けてクリスチャンになった方。その時の体験などをいろいろ伺いました。


 今、必要に迫られて、その異端の宗教について、教理の問題点など、いろいろと調べたり、整理をしているところなのです。その異端は、よく出来た偽札のような感じで、一見違いがわかりづらい。その異端も聖書を使い、神や、イエスキリストへの信仰、ということを語るからです。


 でも、その方がいうには、その異端にいたときには、神様が怖かったのだそうです。一生懸命頑張って信仰しないと、神様に裁かれるという恐怖心があったそうです。信仰の喜びなんて全然なかったのだそうです。


 あるとき、そこの教えが間違っていることがわかってそこから抜けて、教会に来るようになります。


 でも、教会にきたからといって、最初からイエスさまのことがわかったわけではありませんでした。神が人となられ、このわたしの罪のために、死んでくださり、このわたしの罪が赦されたという福音を、なんどメッセージで聞いても、本で読んでも、わからなかったそうです。理屈はわかるんです。でも、自分のことにならないのです。3年かかったといわれました。


 3年経ったある日。もう自分には福音はわからないんじゃないかと、自分に絶望したあるとき、ストンと福音がわかったのだそうです。神から離れていた自分の罪ということが、本当にわかって、イエスさまの救いがわかったのだそうです。


自分というものに絶望するとき、神様は働き始めるのですね。



「これは奇跡です。聖霊の働き以外のなにものでもありません」とその方は確信を持っていわれました。わたしも、本当にそう思います。


 「それにしても、よくわからないまま、3年間も教会に行き続けましたね。行くのやめようと思わなかったんですか」と聞いてみました。


 その方は、「教会に答えがあると思っていたから」と言われ、また「教会の幼稚園の子どもたちが、イエスさま大好き、と目を輝かせていたり、教会のご夫人たちが、イエスさまに出会ってうれしい!と目を輝かせているのをみて、すごい!!と感動していたから」とも・・・


 前に関わっていた異端の宗教では、「イエスさまに出会ってうれしい」なんて、聞いたこともなかったからだそうです。いつも、「もっと自分は神への信仰が高まらなければならない」と、神様を恐れてばかりいたのだそうです。


 うーん。やっぱり、イエスさまに出会えた喜びなんだよなぁ。この「喜び」に勝るものはないんだなぁ、と再確認したのでした。


 もちろん、信仰があってもなくても、生きていれば、つらいことも、悲しいこともあるものです。


 しかし、イエスさまに出会ってから、なぜか、魂のそこにはいつも静かに、この「喜び」と「平安」があるのです。理屈はわかりません。不思議です。


 クリスチャンであっても時に、自分のことを、情けないなあと思う失敗や、罪を犯して自責の念にとらわれることもあるものです。


 しかし、心を静めて祈るとき、いつも「ああ、イエスさまはこんなわたしのために、十字架についてくださったんだなぁ、愛してくださっているんだなぁ」と、愛され赦されている喜びに、涙がでてきます。また、立ち上がる力と勇気がでてきます。不思議です。


 すべては、聖霊の働きなのですね。


 のぞみキリスト教会の上に、この聖霊のお働きが、さらに豊かにありますように。



「・・・聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(新約聖書 1コリント12章3節)


「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」」(新約聖書 1ペテロ1章8節9節)