「十字架を誇る」

今日は、常盤台バプテスト教会での最後の主日礼拝説教奉仕でした。
バプテスマの決心者が二人与えられました。主に感謝致します。

聖書箇所:ガラテヤの信徒の手紙6章11節〜18節

6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

 今年、わたしたちの教会は、軽井沢のめぐみシャレーにサマーキャンプに行きましたね。あの、めぐみシャレーには大チャペルがあって、そこに十字架が掲げてあるのですけれども、その十字架は、白樺(しらかば)で作られているそうであります。白樺(しらかば)。しらかばを逆から読むと、なんでしょう。「ばからし」ですね。十字架はこの世の人々には「ばからし」いもの。しかし、信じる私たちには神の救い、神の愛の証でしょう。

 しかし、この世に生きる私たちは、この十字架の素晴らしさと、そして、ばからしさの狭間で葛藤することがある。言葉を変えて言えば、十字架をこそ誇るか、または、自分を誇るか。別の言葉で言えば、聖霊に導かれて生きるか、肉に導かれていきるか、その葛藤をわたしたちは知るわけであります。

 お茶の水にクリスチャンセンターという建物がありますけれども、そこで毎週金曜の夜に集会をしていてですね、わたしが、クリスチャンになって1年くらいたったころ、ふと、その集会に出たことがあるのです。そこで語られたメッセージに自分は打ちのめされました。それは、自分がいかに、キリストの十字架を人に隠してきたのか。キリストの十字架を恥じてきたか。そのことを示されたメッセージでありました。心から悔い改めて、その夜、すぐに、当時副牧師をしておられた、石堂先生に電話をかけて、主のために献身したいと、語りました。いろいろ訳があって、その後すぐに神学校にはいきませんでしたけれども、この、十字架を恥じていた自分を、悔い改めた、この体験は、わたしにとって人生のターニングポイントなのです。

 先月から、何度かガラテヤの信徒の手紙を読んできまして、今日は、最後の箇所になりますが、ここにおいて、使徒パウロが、「わたしには、十字架のほかに誇るものがなにもあってはならない」と語ったこの言葉を、説教の準備をする間中、何度も何度も読み返して、自分が、あのときに思った、あの最初の献身の心を、もう一度思い起こしました。そうだ、そうなのだ。わたしの誇りは、十字架だけなのだと、もう一度、新しい悔い改めの心を頂いて、今日、常盤台の最後の講壇に立たせて頂いています。

 私たちは、神を信じているから、クリスチャンなのではありません。神を信じる宗教は他にもある。わたしたちは、イエスさまの十字架で、罪赦され、神と和解させていただいたゆえに、クリスチャンなのでありますね。

 ガラテヤの教会には、問題がありました。しかし、それは道徳的な問題ではないのです。悪い行いをする人がいるから問題だという話しではありません。そんなことよりはるかに大きな問題。つまり、キリストの十字架を恥じて、割礼をするという問題でありました。キリストの十字架で救われるという恵みにとどまれない。それを恥じ、人によく思われるために、割礼に走った。

 12節でパウロはこう言います。
「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなた方に無理矢理割礼を受けさせようとして」いるのだ。

 割礼が必要だ。そういっている人々は、結局、肉において、人からよく思われたがっているのだと、パウロはいうのです。その証拠に、割礼が必要だといっている人自身、律法をちっとも守っていない、と13節にあります。

 結局、割礼とは、人から良く思われるためのものでありました。

 特にユダヤ人からクリスチャンになった人々にとって、かつてのユダヤ人の仲間たちから、よく思われるためには、同じ教会にいる異邦人のクリスチャンに、割礼をしなければならない。そうすれば、異邦人をユダヤ教に改宗させたと、仲間達に喜ばれる。そういうことであります。その反対に、十字架、十字架などといっていたら、ユダヤ人の仲間たちから、迫害されてしまう。

 だから、無理矢理にでも割礼を受けさせた。そういうクリスチャンがいたのであります。

 周りの人々。仲間達から迫害されたくないゆえに、この、割礼を持ち込んでしまう、ということは、どの時代の教会にも起こりえる誘惑ではないでしょうか。

 戦前、日本の多くの教会は、礼拝のなかに、天皇を賛美時を持ち込んでしまいました。それはひとえに、軍国主義の嵐の中で、日本人の仲間たちからよく思われることを望んでしまったからでありましょう。キリストの十字架だけを誇り続けることができなかった。

 ガラテヤの教会のみならず、どの時代の教会も、この、人によく思われたいという、割礼を求める誘惑があります。人からの誉れを求めてしまう心。パウロはそれを、肉と呼びました。そのような肉の誇りのまえには、十字架は愚かになってしまう。

 考えても見れば、はるか昔に、はりつけになった男がいた。しかし、そのはりつけられた男の死が、このわたしにとって救いです、などといってありがたがる。おお、クリスチャンという存在は、なんと愚かで、弱虫で情けない人間だと、蔑(さげす)まれた時代が、この日本にもあったわけですね。

 しかし、どうでしょうか。もし、今、十字架のゆえに、そのように蔑まれる言葉をかけられたら、わたしたちはどのような反応をするでしょうか。

「いやいや、教会には立派な人がいるんですよ」というでしょうか。それとも、「いや、立派な会堂があるんですよ。音楽も素晴らしい。一度来てみたらどうですか」というかもしれません。そうやって、なんとか、誇れるものを、わたしたちは捜すかもしれない。この十字架のかっこわるさは隠してしまいたい。十字架など忘れて、「教会にはもっと素晴らしいものがあるんですよ。どうぞ、それを見て下さい」。と、かっこいいもの、誇れるものを探したくなる。
わたしたちも、人からばかにされるよりは、できたら自分を誇りたい、かっこよくありたい。

 そういう意味で、弟子のペテロは、大変かっこよい弟子だったと思います。イエスさまが捕らえられる直前。最後の晩餐の席で、ペテロはイエスさまに、「あなたと一緒なら、この命も惜しくありません」と宣言した。ペテロはかっこよかったのです。
 実際、イエスさまを捕らえに来た役人達と、ペテロは最初、戦かった。ペテロは、剣を抜いて、相手に斬りかかったと書いてあります。ペテロは本気で、イエスさまのためなら、自分の命も惜しくないと、戦うつもりだった。彼はかっこよかった。

 ところが、とうのイエスさまは、「剣をさやにおさめなさい」といわれて、静かに捕まってしまった。そして十字架というかっこわるい道を歩んでいってしまった。

 その惨めさに、ペテロを始め弟子たちは、ついていけなくなったのです。イスラエルのために戦う道なら、彼らは本当に命を捨てたかもしれない。わたしたちも、国のためとか、大義名分のためなら、そういうことができるかもしれないですね。しかし、弟子たちは、逃げだした。それは、イエスさまが、みじめで、かっこわるい十字架の道を歩み出したから。そのかっこわるさについていけなくなった。犬死など出来ないと逃げ去った。そうではないでしょうか。

 これに関連した証があります。先の戦争の時代を生きた、鈴木正久(すずきまさひさ)という著名な牧師が、説教集のなかで、こんな証をしておられた。

「わたしが戦争中、牧師をしていた教会は、キリスト教が憎まれるようになる前までは、時には200人以上の人が集まっていたのです。しかし、今考えてみると、その人々の集まり方というのは、讃美歌を歌うのがおもしろい、教会というのは品がよい。少しは役に立ちそうなことも教える、しかし突き詰めて言えば遊び場だ、遊び場といっちゃあいけないが、社交場だ、文化的社交場だ、そんな具合で集まっていた気配があったように思われます。しかし、いずれにせよキリストという名前のもとに皆集まっていたことには間違いありません。それは教会なのですから。

 しかし、ああいう時代になると、一人去り二人去りではなく、10人去り20人去り、束になって来なくなっていきました。戦争が激しくなるころには、もうほんとうに二人、三人、他は誰も来ない。そうして、その空き家のようになった教会が、しかしコンクリートで造ってあるので、逃げ隠れすることも出来ず、目の前が警察ですからね、そういう教会を怪しいものとして、いつも見張っているのでしょうけれども、その警察署の前に教会が建っている。夜、それを見上げて、自分がそこの牧師として、キリストのために勇敢になるということは、どんなに難しいことか。反面、多くの男達は、どんどん戦争に行ったわけです。

 私はこんなことを感じました。赤紙一枚で戦争に引っ張り出されるわけですが、それが来たときに、内心、ほっとしたのです。本当に変なことですが、ほっとしたのです。『やれやれこれでおしまいだ。心を疲れさせられる生活はおしまいだ。いまや名もない一人の兵隊になって、みんなの中に紛れ込んで、くるしいったってこんな状態よりもいい。出かけていって死んでしまう。しかし今よりも楽だ』こんな気持ちが、あの召集令状をもらったときにしたのであります」

 こういう証であります。とても心探られる証ではないかと思います。

 キリストのために勇敢になることは、どんなに難しいことか。弟子のペテロたちも、あなたのためなら命さえ捨てると言えたのは、結局は、自分の誇りのためでありました。人間の犠牲とか、人間の愛とか、人間の奉仕とか、それがどんなに表面的には美しく純粋に見えようとも、どこかで自分のために、そして、人から良く思われたいという、この思いから逃れられない。人間は、完全に他者のために生きることはできないのであります。

 ただ、イエスさまだけが、まったくご自分の誇りを捨てて、完全に他者のために死なれた。それが、あの十字架であります。誇って当然の、神の御子が、その誇りをいっさい捨てさり、私たちのために、ただ、私たちのためだけに、命を投げ出してくださった。それがあの、十字架であります。

 十字架のうえで苦まれるイエスさまに、群衆は、「他人のことは救ったが、自分のことは救えない。今すぐそこから降りてきてみろ。」と罵倒したときも、イエスさまは十字架から降りなかった。神の子なのですから、降りることが出来たでしょう。しかし、降りなかった。なぜなら、イエスさまは、ご自分を救うためにこられたのではなく、まったくもって、わたしたちの救いのために、命を捧げるために、来られたからであります。それが、あの十字架。

 パウロはローマの信徒の手紙のなかで、こう言いました。

5:6 実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
5:7 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
5:8 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示され」たのであります。

 正しい人のために死ぬなら名誉でしょう。しかし、罪人のために死ぬ。それは惨めきわまりないことであります。しかし、キリストは、罪人であるわたしたちを救うために、どうしても、その、惨めきわまりない、かっこわるい、あの十字架につるされなければならなかった。わたしたちのために、その惨めさを、そのかっこわるさを、引き受けてくださらなければならなかった。そして、イエスさまは、その惨めな死を引き受けてくださったゆえに、わたしたちは、義とされたのであったのです。

 それゆえに、パウロは、14節でこう言います。
 6:14 「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」

 そうパウロは言うのです。パウロは、人に誇れるものが沢山あった。律法学者として生きていれば、人々に褒められたにちがいありません。しかし、パウロは、このキリストの十字架が誇りだと言います。それ以外に誇るものなどあってはならないのだと言います。

 確かに、人間は、なにか誇りを持たなければ生きることができないでしょう。日本人なら日本人の誇りがほしい、自分の仕事に誇りがほしい、そうやって自分を誇りたい。しかし、それは、結局は、他人によって計られ、ゆえに、他人の顔をいつも伺い、そうやって、人によって支えられる、そのような誇り。

 しかし、パウロが言っているのは、人ではなく、神のみまえで、この自分が義とされた。神の前で、この自分が、正しい人間として立つことができるようにしてくださった。その十字架をこそ、パウロは誇るのであります。

 そしてそれは、聖霊に導かれるときにのみ、誇れる誇り。肉は自分を誇ります。しかし、聖霊に導かれるならば、十字架が誇りとなるのであります。

パウロは15節でこう言います。

6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

 新しい創造。つまり、聖霊に導かれる、新しい命に生きるとき、わたしたちの価値観はひっくり返る。人には愚かな十字架が、誇りとなるのであります。聖霊に導かれるからこそ、十字架の死の向こう側に、復活があることが分かる。十字架の愚かさが、実に、新しい命を生みだすことがわかる。十字架こそが、わたしたちの誇りであることが分かるのであります。

 昔、イギリスのウエールズで、遭難事故がありました。これは、説教で良く取り上げられる有名な話ですけれども、ウエールズのいなかで、ある時、一人のお母さんが猛吹雪にあって、道が分からなくなった。そして、ついに遭難してしまいます。

 捜索隊が出て、お母さんを捜しましたら、なんと、雪の中から、「はだか」のお母さんが出てまいりました。

 そのお母さんの裸の下に、赤ちゃんが生きておりました。なんと、お母さんは全部の洋服を脱いで、その赤ちゃんに着せて、温度を保って、そして、さらに、自分の裸の体で、それを押えて、死ぬであろう赤ちゃんだけは、生きてほしいとそうやった。お母さんは死んだのですけれども、赤ちゃんは命が与えられる。

 その赤ちゃんはやがて立派に成人します。その赤ちゃんの名は、ディビッド・ロイド・ジョージ。彼は、イギリスを代表する最高の政治家の一人になっていくのです。

 母親が命をかけて守った命が、その母の愛を受け止めて、やがて、イギリスのために大きな働きをする人となっていった。

 そうならば、神の御子が、その尊い命を、私たちのために献げ、わたしたちに新しい命をくださり、聖霊に導かれる命を下さったのならば、天の父なる神様は、どれほど、私たちが、神の国のために生きてほしいと願っておられるでしょうか。

 イエスさまは、その新しい命に、私たちが生き、人ではなく、神によって与えられる誇りを、人がなんと言おうが、神の前に義とされている、その誇りに生きぬくために、十字架についてくださった。

 この十字架の愛に、感動して生きるのが、私たちではないでしょうか。聖霊によって、この十字架の愛が心に注がれ、ひたすら感謝し、主に仕えていく。それが、私たちではないでしょうか。

 パウロは17節で言います。「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」

 焼き印とは、皮膚を焼いてしるしを付ける、昔は奴隷に、そういう事をしたのです。パウロは、もう、自分はキリストの奴隷だと言うのです。キリストの十字架という焼き印を押された。

 それは、わたしたちもそうではないでしょうか。聖霊に導かれて、この、キリストの愛が心に迫るようになった私たちも、この十字架こそを誇りとして生きていくのではないでしょうか。

 どのような時代がこようとも、人から、愚かものと笑われたとしても、わたしたちは、このキリストの十字架をこそ誇りたい。この神の愛をこそ誇りたい。そして、全世界に出て行って、この十字架の福音を告げ知らせていきたい。

 それこそが、聖霊に導かれていきる、私たちの生き方なのであります。

お祈り致しましょう。