「必要なことはただ一つ」

shuichifujii2006-07-26

7月26日祈祷会のメッセージ

聖書
ルカによる福音書 10章38〜42節

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 「マルタとマリアの話」。これは短いながら大変印象深い話です。もう、なにも解説など必要ない単純明快な話しです。

 旅の途中のイエスさま一行を、迎え入れたマルタとマリア。マルタが姉でマリアは妹。マルタという名前には女主人という意味があるそうですが、マルタはイエスさまの一行をもてなす為に、忙しく立ち働いいてる。一方、妹のマリアはイエスさまの足もとに座りこんで、イエスの話に聞き入る。

 マルタはイエスに言う。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 このマルタとマリアの話の直前は、「良きサマリア人」の話です。隣人に仕えることの大切さを思わされた、「良きサマリア人」の話のすぐ後で、このマルタとマリアの話しを読むとき、わたしたちは、マルタのことをにわかには責められない。どちらかというと、マルタに同情してしまうようにおもいます。一生懸命イエスさまに仕えようとしているマルタ。しかし、妹のマリアは気がきかない。地べたに座り込んだままで、動こうともしない。これは、隣人愛ということからみると、マルタのほうが愛に生きているのではないかと、マルタに同情的になるかもしれない。

 確かにマルタにも言い分があるでしょう。「旅人をもてなす。これは当時の当然の愛の業。なのに、どうして妹は何もしないのか。自分ばかりがしているのか。私だって、イエス様の話を聞きたいのは一緒だ。しかし、だれかがもてなしをしなければならないじゃないですか。」
 こんな言い分がマルタにはあったかもしれない。そして、わたしたちも教会生活のなかで、こう考えるでしょう。
「みんながマリアだったら教会は立ちいかない。マルタだって必要だ。マルタの様な人がいるから、教会は回っているんじゃないか。」確かにそれは正しい。心と体を使って、様々な気遣いをし、奉仕して下さる人がいるから、教会は日々、動いているのは事実なのです。

 それでもなお、何が問題なのか。問題の本質はどこにあるのか。それはイエスさまのこの言葉によって指摘されているのです。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」

マルタは「多くのことに思い悩み、心を乱していた」。ここに問題の本質があります。

 ここに、隣人に良いことをしましょう。親切にしましょうというだけではどうにもならない、私たちの現実の姿があるのです。マルタは間違ってはいません。彼女のしていることは正しい。しかし、その正しいことをする中で、このような思いが湧いてきてしまうところに人間の悲しさがある。正しいことをしているなら、私たちは罪と無関係でいられるわけではないのです。正しいことをしながら、罪に縛られてしまうことがある。そしてマルタは、そのことに気が付かずに、心騒がせた結果、マリアを裁いてしまう。

 人は正しいことをしている時、しばしばこのような誘惑に陥ります。自分の正しさからのみ、人を裁いてしまう。それは、本当に正しいお方である神の言葉を忘れることであります。神を忘れる。神を愛することをしなくなる。

 そんなマルタにイエスさまはこう言います。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

 「必要なことはただ一つだけ」とイエスさまは言われます。しかも「マリアは良い方を選んだ」と続きます。つまり、必要なこととは、それはイエスさまの言葉に聞き入ることだとイエスさまは言われます。

 イエスの言葉に聞き入る。それはただ聞き流すのではなく聞き入るのです。愛するお方の、イエスさまの言葉に聞き入る。それこそが神を愛することでありましょう。神の言葉に聞き入る。神を愛する。その心に、神の愛が流れ、心乱す思い煩いから解き放たれる。

 マリアはその良い方を選んだのであり、マリアからそれを取り上げてはならないとイエスさまは言われます。神の言葉に聞き入る喜びを、マリアから、また、わたしたちも、お互いからも、だれも取り上げてはなりません。

 御言葉に聞き入る。それは言い換えれば、礼拝であり、祈りでありましょう。
わたしたちの生活から、だれも礼拝の時間を、祈りの時間を取り上げてはならない。

 しかし、現代は忙しい時代です。時は金なり。あらゆる情報が、わたしたちをせき立てて、何かをさせようとする時代です。何かしないと落ち着かない、行動至上主義の時代であります。その時代の流れのなかで、クリスチャンといえども、どこかで、神を礼拝する時間を、祈りの時間を切りつめてしまうことはないでしょうか。祈ることに冷ややかになり、また、あきらめてしまうことはないでしょうか。ある方は私に「先生、祈ってばかりでいいのでしょうか」と言ってこられました。しかし、本当にそうなのか。礼拝すること、祈ることとは、その程度のことなのか。

 いや、そうではないのであります。私たちは、時間が余っているから礼拝をするのではない。時間ができたから、祈祷会をするのでもない。そうではなく、「必要なことはただ一つである」とイエスさまがいわれた、御言葉に聞き入る、そのことのために、わたしたちは、時間を献げて、礼拝を献げ、祈りを献げるのです。

 本当は、まず、イエスさまが、私たちのために、十字架に命を捨てるという奉仕をしてくださった。私たちのなすすべての奉仕は、そもそも自分の中にその動機も力もありません。すべては、このイエスさまの愛が発端であり、エネルギーであります。そしてそれは、イエスさまの言葉に聞き入る所から頂く力なのであります。イエスさまの言葉に聞き入り、イエスさまにつながって生きるときに初めて、私たちは、心を乱すことなく、健やかに隣り人を愛する道へと進んでいくことができる。「神を愛すること」と「人を愛すること」が結ばれていくのです。


 このイエスさまの奉仕に与り、主の御言葉に聞き入る。それこそが、私たちにとって無くてはならぬものであることを心にとめたいのです。