「生きた水」

shuichifujii2006-06-09

6月9日金曜祈祷会の聖書の学び
ヨハネ7章37節〜39節

 さて、7章は仮庵の祭りのときの、イエスさまと人々とのやり取りを追ってきました。
 仮庵の祭りは、何度も言っていますけれども、これは、秋の祭りですね。過越が春で、仮庵は秋。仮庵とは、借りの宿。昔、イスラエルの民が、荒野を旅した40年を思い起こして、掘っ立て小屋のような、仮小屋に8日の間だ移り住む。そして荒野を旅するような人生を、神が誰が支えいてくださることを思い起こす。それが、仮庵の祭りです。

ユダヤ教では「祭り」といえば仮庵祭を指すほど、もっとも重んじられた祭り。盛大なお祭りだったといわれます。
 祭りの間、神殿では毎日、シロアムの池から汲んだ水を祭壇に運んでいく行進が行われたそうです。人々は賛美を歌いながら行列をつくって、そして、神殿に運ばれた水は、神殿の中にある、犠牲を献げる祭壇に、注がれる。そういう儀式が行われた。

 このお祭りの最初の日には、ゼカリヤ書の14章が朗読されるそうです。
「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける」14章8節 P1494

 秋のお祭りですから、農業のお祭りという面もあったでしょうし、ですから、雨乞いということを願う側面もあったのでしょう。パレスチナは渇いた地ですから、雨が降らない、水か枯れてしまうということの恐ろしさを、肌身で知っていたわけですから、どうか見放さないで水を与えてくださいと、神様に祈り願う、そういう雨乞いの意味が当然あったでしょうけれども、 昔、イスラエルの民が荒野を旅していたとき、水がなくって民が死にそうになったときに、指導者モーセが、神に祈ると、岩を打ちなさいと示されて、岩を打った。するとそこから水がほとばしり出て、イスラエルの民が養われた(出17章6節)と、そういう故事にならって、神様が雨を降らせてくださるようにと、そういうお祭りでもあった。

 そのお祭りに最終日、お祭りが最高潮に達したその時に、イエスさまは、立ち上がって、大声で言われた、ということです。
 ただ、普通は当時の、先生というものは、教えるときは座って教えるもので、山上の説教もイエスさまは山の上で座られたわけですけれども、イエスさまは逆に「立ち上がって、大声を出した」。これは、イエスさまの教えというよりも、祭りにすっかり浮かれている人々に向けて、目を覚ますように、叫ぶような、そんなイエスさまの招きなのでしょう。

その招きとは、「渇いている人はだれでも、私の所にきて飲みなさい。私を信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という招きでした。

 しかし、よく考えてみれば、お祭りの最高潮の時に、誰が渇いている人がいるのか。お祭りですから、きっと、朝から酒を飲んでいるひともいたかもしれない。そして、この祭りは、喜びの祭りですから、こんな時に、渇きを感じている人などいたのだろうか。逆をいえば、もし、こころの渇きを感じていたなら、多くの人は、イエスさまの所に行ったはずであって、しかし、実際は、そうではなかったから、やがて、イエスさまは十字架に殺されてしまうわけであります。群衆が、自分の心の渇きというものに、気がついていたら、イエスさまなど必要ない、その教えなど必要ないといって、十字架につけてしまうことはなかった。イエスさまを求めただろうとおもう。

 イエスさまは、ルカの福音書の中で、まずしい者は幸いである、神の国はあなたがたのものだ、といって、反対に、
「6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。」といわれました。

 今、神様無しに、満ち足りてしまっている。いや、満ち足りていると思いこんでいる人は、不幸だ。神様なしで、笑って生きている人は、不幸だ。いつか、悲しみ泣くようになると、そうイエスさまは言われる。

 心の渇きを知らない。旨いものを食べて、飲んで、いい生活をしていれば幸せだと、神なしで満ち足りてしまうことの不幸を思います。

 しかし、この仮庵の祭りのなかで、その熱狂のなかで、心の渇き、心の貧しさ、神なきむなしさ、寂しさを感じている人がいたら、その人は幸いだろうと思います。

 クリスチャンの作家で、数年前になくなった三浦綾子が、生前、こんな短歌をうたっていました。

「夫といて なおも淋しきこの夕べ 聖句幾つか胸に浮かぴ来」
 夫といても、夕べになると、どうしようもなく襲ってくる寂しさ。そんな気持ちを歌った歌ですね。

 当時、三浦さんご夫婦は、どこから見ても、仲がよい夫婦であって、おたがいお体が弱かったので、助け合い、いたわり合って、いつもいっしょにいた麗しいご夫婦でありますのに、そんな愛する夫とともにいながらも、ふと、寂しさを覚える。魂の渇きを覚える。
三浦さんは、この歌の解説のなかで、

「 その寂しさとは、言ってみれば宗教的な魂の飢えといおうか、人間本来の孤独といおうか、・・・これは人と人との間における問題ではなく、創造主なる神と、人間との間からくる淋しさといえるかも知れない。 そして、この淋しさを知ることが、人間には重要なのだと思う」。

と書いていました。この、創造主なる神と、人間の間からくる寂しさ。それは他人が埋めることの出来ない、神のみが埋めることの出来る寂しさ。心の渇き。この心の渇きを知る人は、幸いなのであります。

ヨハネ福音書の4章に、サマリアの女とイエスさまのやり取りがありました。
5人の夫がいた女性です。5回結婚と離婚を繰り返したのか、とにかく、一人の男性では、彼女は満たされなかったのでしょう。そういう意味では彼女は、心の飢え渇きを覚えていた女性ではないかと思います。ただ、その飢え渇きを、神様によって満たすのではなくて、男性によって満たそうとしてしまったところに、彼女の間違いがあった。
そんな彼女に、イエスさまは、今日の所と同じように、水の話しをしたわけですね。

4章13節
「4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 井戸の水は、飲んでしまえばまた渇く。しかし、イエスさまの与える水。これは、霊的な水ですね。魂の中に注がれる水。神の霊。聖霊でありますけれども、その霊的な水こそが、彼女の心の渇きを癒やすのであって、男性をいくらとっかえひっかえしても、井戸の水を飲むようなもので、また渇いてしまうわけであります。

 今日の聖書の箇所に戻って、イエスさまは
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われたように、人のところにではなく、イエスさまのところにいく。牧師のところにでもないですね。牧師の所に来られても、人の魂の渇きを癒やすことなど出来るわけがない。人間にそのようなことが出来るわけがない。キリストこそがおできになるわけです。だから、牧師もまた、日々、キリストのもとにいく。毎日、御言葉と祈りのなかで、キリストとの交わりを十分もたないと、牧師も、皆さんと一緒で、魂が渇いて、からからになるわけです。

 それを放っておくと、どうなってしまうかといえば、いつの間にか、神様抜きで、なんだか満ち足りた気分になってしまう。別に熱心に祈らなくても、何も変らないじゃないか、大丈夫じゃないかと、なんだか、満ち足りてしまう。渇きを感じなくなってしまう。これが、怖い。

 水というものは、不思議なもので、のどが渇かないと、なかなか飲めるものではないですね。お茶とかジュースならまだしも、水というものは、のどが渇いていないときには、なかなか飲めるものじゃない。わたしも妻から、体のために、水をもっと飲むようにと、ペットボトルを持たされていますけれども、なかなか飲めない。のどが渇いていないんですね。そして、同じように、魂も渇いていなければ、霊的な水を飲もうにも、なかなか飲めない。飲もうと願わない。求めないということがあるわけです。聖書はいつでも開くことができる、いつでも祈ることが出来としても、それをしないのは、それは、霊的な渇きを感じなくなっているところに、問題があるのではないかと、そう思います。

詩篇には、神様をしたい求める詩篇が幾つかありますけれども、有名なところで詩篇42編には、こうありますね。

42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。

 このような、魂の飢え渇きを覚えることができる人は、本当に幸いだと思います。

 この魂に渇きを覚える人々に向かって、イエスさまは、声を大にして呼びかけた。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 ここで言われている、「わたしを信じる者」という言葉は、直訳すると、「わたしの中へと信じる入る者」という表現なんですね。自分が頑張って信心する、そういう信仰ではなくて、イエスさまに、自分の全存在を投げこんでしまう。丸投げしてしまう。そうやって、この私が頑張って信じる信仰ではなくて、イエスさまのふところに飛び込んでしまうような、そういう人は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と約束されているわけです。
 そして、その「生きた水」とは、聖霊のことをいっておられることは、すぐ後の39節で説明されます。
 その「生きた水の川」は「その人の内から」流れ出ると訳されていますけれども、原文では、「その人の腹から」となっています。
 「腹から」ということは、つまり、人の奥底からという意味なのですけれども、でも、やはり、「腹」といわれているからには、単に、心の問題というよりも、心も体も魂も含めた、人間の存在のすべての奥底から、生きた水が流れてくるという、そういう深みのある言葉であろうと思います。

 ですから、信仰といいますのは、単に、心の問題ではない。心の持ちようではない。信じる心が大切だという、そういう話しでもない。心だけの話しではなくて、体も、魂も含めた、人間存在の根底から、命の水が溢れてこなければ、信仰にはならない。ここが、心理学と信仰との決定的な違いでしょう。心理学とかカウンセリングがはやっていますけれども、クリスチャンの人も、心に関する問題に興味がある人も多いわけですけれども、しかし、信仰は、心だけのことではない。心よりももっと深いところ、もう、「腹のなか」としかいいようのない、そういう人間存在の深いところが、癒やされること、生ける水が流れるようになること、それが信仰なのです。
 
 さて、イエスさまは、「聖書が言っているように」と言われますけれども、それは、ズバリこの箇所だというよりも、神様の霊が注れることが、川とか水の流れにたとえられているところが沢山あります。

43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。
43:20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ/わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。イザヤ四三・一九〜二〇、

44:3 わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。イザヤ四四・三

また、エゼキエル四七・一〜一二もご覧下さい。

 このように、旧約聖書預言者は、いつか、命の水が注がれるという預言をしていたわけです。そして、イエスさまは、それはまさに、私なのだ。私を信じるなら、そのことが、その人の内に成就すると、そう呼びかけた。


さて、最後
7:39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

 この「生きた水」とは、つまり「聖霊」。しかし、ただ、まだこの時には、イエスさまは、栄光を受けておられなかった。つまり、まだ、十字架について、死んで、復活しておられなかったので、まだ、信じる人全てに聖霊がくだる時代は来ていなかった。

 先日、ペンテコステの礼拝をしましたけれども、ペンテコステの日がやってきて、聖霊が降って、この約束が実現した。今、そういう時代に生きている私たちは、本当に幸いなのですね。信じるわたしたちの内には聖霊がいてくださる。生きた水が流れていると、そういえる時代なのですから、幸いです。ただ、やはりそのことを実感して生きるためには、逆説的ですけれども、日々、飢え渇きを感じていないと、いけないのではないか。そう思います。
 この世のもので、心が満たされてしまう。満ち足りてしまうという、そういうことではなくて、毎日、神をしたい求める。聖霊に満たされることを、日々、求めていく。そういう祈りが、大切になってくると、そう思います。

 観念ではなくて、実感として、魂の奥底から、生ける水の川が流れ出す、そういう経験を、日々していきたい。本当に聖霊によって、心が満たされ、、喜びと平安がわき起こってきて、自分も潤うばかりか、周りも潤うような、そういう人生を生きていきたいと、そう願うわけであります。わたしは、毎日、朝、聖書を読み祈る、その祈りの中で、自分思いではなく、人の言葉でもなく、聖霊に満たされることを祈り願います。満たされるとは、言い換えれば、支配されると言って良いと思いますけれども、肉の思いに支配されるのではなく、聖霊に支配される。
聖霊の導きに敏感になれるよう、そう祈る。そうやって、心のそこから、信仰の喜びが湧いてくるまで、祈ります。そういう祈りを毎日しなければ、魂の飢え渇きが分からなくなってしまう。御言葉がピンと来なくなってしまう。説教が出来なくなってしまうので、毎日飢え渇きをもって十分祈るようにしているのです。

 聖霊に満たされ、命の水の川が流れる喜びを共に証していきましょう。