「敵を愛するとは」

shuichifujii2006-06-07

6月7日祈祷会メッセージ

ルカ6章27節〜36節

 祈祷会では、ルカによる福音書を学んでいます。次の日曜日の、早朝礼拝、そして小学科も同じ聖書箇所から学ぶことになっていますので、まず祈祷会にでて、御言葉を頂いて、祈って備えて頂きたいと願っているわけです。また、一度では分からない、もう一度、話を聞いて復習したい、という方がおられたら、次の日曜日の早朝礼拝に出て頂けたら、また、同じ話をいたしますので、どうぞよろしくお願い致します。

 さて、今日の箇所は、小見出しに「敵を愛しなさい」とありますように、敵を愛しなさいというイエスさまの教えが記されています。

 今日のところは、その前の20節からイエスさまがお語りになった説教の一部であります。20節にありますように、これは弟子たちに教えられた教えです。神の国に生きるということは、こういう事なのだ。神の国の祝福に生きる人生。それは、このような人生なのだ、ということをイエスさまがお語りになった。おそらくいろいろなところで、語られたものを、ルカは、このようにまとめた。マタイの福音書にも同じ教えがありますが、マタイはまた違ったまとめ方をしています。しかし、共通しているのは、最初に、幸いなるかな、という言葉で始まることです。なにが幸いなのか?。それは神の国はあなた方のものだから、だから幸いだといっていますでしょう。つまり、この地上において、すでに、神の国を生きている。神を信じて神と共に生きる人生の祝福を語っているわけです。

 ですから、勘違いしてしまって、ここに書かれているように頑張らないと、神の国に入れない、という教えではない。そうではなくて、イエスキリストを信じて、神様に罪を赦して頂いて、神様の子どもとなった。それはもう、この地上で神の国を生き始めているということであります。神を信じる前は、神も仏もあるものかと、自分の欲望のままに生きていた人々。俺こそが神だと、自分も人も傷つけて平気な人生を生きていた、まるで地獄の国に生きていた人を、イエスキリストが救い出してくださって、もう、俺が俺がという、自分中心はやめて、神様中心の生き方に変えられた。それが神の国に生きる祝福であります。。

 そのように、神の国に生き始めた弟子たちに、私たちに向って、神の国に生きるあなたなのだから、

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。」

 と言われるわけであります。
 繰り返しますけれども、このように生きなければ、神の国に入れないとか、救われないのではない。こうは生きられないのがにんげんです。自分の敵を見れば、どうやって復讐してやろうかと、心の中で怨念を膨らましている。自分を憎んでいる人間に親切になどできるわけがない。目も合わしてなるものかと生きる私たち。自分の悪口を言う人間の、悪口をいうときほど、気持ちのいいものはないと心から感じる私たち。

 そんな神の国とは正反対の、地獄の国の住民が、どんなに頑張ってみたところで、神の国の住民にはなれない。自分の行いではむり。だから、神様の側から、地獄の国に手を入れて、私たちを引っ張り上げて、神の国に連れて行ってくださった。自分の行いではなく、神の恵み、キリストの十字架によって、罪赦されて、天に国籍をもつものとなった。神の国の住民になった。

 外国に行けば、その国にはその国の国民性というものがありますように、神の国に入れば、神の国の国民性というものが身についていく。その一つが、敵を愛するということであります。

 敵を愛するから、神の国に入るのではなくて、神の国に入っている人は、敵を愛することに取り組むようになるということであります。

 さて、そうはいいましても、敵を愛するとはいったいどういうことか。そんなこと出来るのか。そもそも愛せないから敵というのではないか。どうも、そこのところが分からない。混乱する言葉であります。

 ある人は、いや、敵を愛するという、この「愛」という言葉の意味がちがうのだ。「愛」ではなく、「大切にする」というのが、もともとの日本語の意味。敵を「ご大切」にする。それなら、私たちにも出来るではないかと、そういわれるかたも、よくおられます。

 なるほど、「大切にする」ということなら、たとえ敵でも、出来そうだと思う。

ところが、ある時、青年にこんなことを聞かれたことがあります。
神様にとって、敵とは悪魔でしょう。それなら、敵を愛しなさいという神様は、悪魔を愛しているんですか?
 こんな質問をされたことがありました。さて、皆さんなら、どう答えるでしょうか。敵を愛するということは、悪魔さえも愛する、もしくは、悪魔を「ご大切」にする、ということでありましょうか?

 これは、聖書の「愛」という言葉を誤解しているのです。つまり、相手が何をしようと、そのまま、いいよいいよと、認めてあげる。そういう甘やかしを、「愛」と理解すると、分からなくなってしまう。パウロは、「愛は、不義を喜ばず真理を喜ぶ」といっています。正しさを求めること、それが聖書の説く「愛」であります。なぜなら、清く正しい、神こそが、「愛」の源であるからです。だから、「愛は不義を喜ばず、真理を求める」のであって、悪魔を「ご大切」になどしない。悪魔を滅ぼすことこそが、神の愛。

悪に対しては、ノーというのが、本当の「愛」。正しいことを求め、善を行うのが、「愛」

旧約聖書箴言を読むとそのことがよくわかります。

たとえば、箴言3章11節〜12節 P.993
「3:11 わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。
3:12 かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。」

 主は、愛するものを懲らしめるとあります。人が神の教えを拒んで、道を外れるとき、懲らしめることで、正しい道に引き戻す。そして、それが愛することだと言われています。

同じ箴言の13章24節では
「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」

と言われています。子を愛するということは、悪いことをしたときに、鞭を控えないこと。いいよ、いいよと甘やかすのは、自分の子どもを愛しているのではなく、憎んでいるのだと、聖書は言います。

 さて、そういう、聖書の「愛」の理解を確認してから、イエスさまが言われた、敵を愛しなさいという言葉の意味を理解するならば、それはただ、敵にやさしくしてあげなさい、とか、「ご大切」にしなさい、という意味ではないことが分かります。

 実際、イエスさまは、律法学者たちと非常に厳しく対決したわけです。律法学者たちは、イエスさまを殺そうとしていた、いわば敵です。その敵に対して、イエスさまは、いいよ、いいよ、好きにしなさいとは言われなかった。

 律法学者達よ。なぜ。神の律法を教えながら、なぜ、律法を守らないのだ、とイエスさまは至る所で彼らに語った。時に厳しく語りました。そうやって、ご自分の命をねらう、敵である彼らが、神に立ち戻るように、必死に祈り、願い、行動した。それが、まさに、本当の意味で、敵を愛することでしょう。敵のいいなりになるのではなく、敵を悪から救い、神様へと導くために祈る。それが敵を愛すること。

 6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

 イエスさまはここで、相手のために祈りなさい、敵のために、祈りなさいと、いわれます。何を祈るのか。相手が病気になって早死にしますようにと祈るわけじゃない。祝福を祈れとあります。神の祝福があるような生活を送れるように、神に喜ばれる、律法にかなった、正しい人生を送れるように、祝福をいのる。それが敵を愛する生き方。

そして、
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
とあります。
つまり、敵を愛する生き方とは、殴られたから、殴りかえすとか、盗まれたから盗む、という、悪に悪を報いる生き方ではない。たとえ、悪いことをされても、だからといって、自分まで同じことをしない。人になにかされたからと言って、自分まで善いことを行う自由を奪われたりしない。笑顔でいる自由を奪われたりしない。あいつがあんなことをしたから、自分もこんな事をした、というような、人に振り回される人生を生きない。いつでも善を行い、優しい言葉を使う自由をだれも奪うことはできない。そして、それが敵を愛する生き方であり、神の国の住民らしい生きかたなのであります。

 初代のクリスチャンは、まさにその自由に生きた。
 彼らは、ひどい迫害のなか、しかし、やり返したり、武装して戦ったり、テロを引き起こしたりしなかった。悪に対して、あくまで、善を行う自由を失わずに、多くの人々は殉教した。

 しかし、そういう、悪に悪を報いない生き方。あくまで、善を行うクリスチャンの生き方こそが、当時のローマの民衆の心を打ち、やがて多くの人々はクリスチャンになっていったわけです。
 今の、アメリカ大統領は、自分ではクリスチャンだと言っておられますが、9.11のあと、これは正義の戦いだといいながら、ほんとうは、やられたからやり返しただけの、アフガニスタン空爆。そして、イラク戦争においては、まだ、やられてもいないのに、先に武力攻撃した。こういう、自称クリスチャンの大統領の姿を見て、世界中の人々が、いったいクリスチャンとは何者なのだと、思うのではないでしょうか。
 クリスチャン同士が、正義の戦いを繰り広げるのをみたなら、この世の人々は、いったいクリスチャンとは何者かと、おもうでありましょう。

 悪をされても、悪で報いない。やられたからといって、やりかえさない自由に生きている。それが、キリストを信じて神の国の祝福に生きる祝福であります。それは、一見、自分が損をする生き方に思えますけれども、本当の幸いな人生であります。

32節以下でイエスさまはこういいます。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

 人はとかく、なにか自分がしてあげたことに、すぐ報いがくることを期待する。
 日頃の感謝のしるしですと、お中元を贈っておきながら、お礼も、お返しもない、と、腹を立てる。滑稽だと思います。腹を立てるくらいなら、贈り物などしなければよかった。贈り物をするということは、自分は損をして、相手が徳をすることを喜ぶことであります。でも、人は、自分が損をすることが我慢ならない。だから、すぐ、人から報いを求めるのであります。自分がニコッて笑顔で挨拶したら、相手もニコっと笑顔で挨拶してくれなければ腹が立つ。見返りがなければ、腹が立つ。それは、自分が損をすることが耐えられないからでしょう。
 しかし、見返りを求めた時点で、それは愛とは呼べません。それは取引に成り下がってしまうのであります。

 さて、敵とは、言葉を変えて言えば、見返りが期待出来ない相手です。そもそも、お礼を言ってきたり、感謝してきたり、お返しなどしないで、不利益をもたらす存在を、敵というわけであります。そして、そういう敵が悪を行ったからといって、こちらまで悪を行ったりせず、あくまで、善いことを行う、そういう自由に生きていく。それは、人には報われないそんな生き方に見えようとも、しかし、神様からは大きな報いがあるのだと、そう、イエスさまは言われるのであります。

6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

敵をも愛する自由。どんなときにも、誰に対しても、悪ではなく、善いことを行う自由。そして、憐れみを主から頂いて、神の国の住民らしく、神の栄光を表わして参りたい。そう願っております。